2020年 8月 13日 (木)

「朝鮮通信使」の歴史が教える「日韓平和」のあり方

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   江戸時代、朝鮮王朝と徳川幕府の間で繰り広げられた壮大な外交があった。釜山から渡海して対馬へ、さらに江戸まで1000キロをこえる行程を1年近くかけて往復する総勢500名ほどの使節が来日した。「朝鮮通信使」と呼ばれる使節団は200年以上にわたり12回日本へやってきたのだ。

   その歴史を日韓双方の研究者たちが検証した「朝鮮通信使に関する記録」が、ユネスコ「世界記憶遺産」に登録されたのは2017年10月31日のことだ。

  • 2017年3月14日、韓国文化院で開かれた(公財)韓昌祐・哲文化財団の助成証書授与式での記念講演をする仲尾宏氏
    2017年3月14日、韓国文化院で開かれた(公財)韓昌祐・哲文化財団の助成証書授与式での記念講演をする仲尾宏氏
  • 滋賀県長浜市の「高月観音の里歴史民俗資料館」に保管・展示されている雨森芳洲の対朝鮮外交の意見書「交隣提醒」。重要文化財指定。ユネスコ「世界記憶遺産」に登録された333点の資料のうち、雨森芳洲の著作など36点が含まれている。
    滋賀県長浜市の「高月観音の里歴史民俗資料館」に保管・展示されている雨森芳洲の対朝鮮外交の意見書「交隣提醒」。重要文化財指定。ユネスコ「世界記憶遺産」に登録された333点の資料のうち、雨森芳洲の著作など36点が含まれている。
  • 長浜市にある「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」にて。1668年5月、雨森芳洲は近江の国雨森郷に生まれたとされる。医学、儒学、語学を学び、外交文書を取り扱う真文役と朝鮮通信使の応接の職務に2度抜擢された
    長浜市にある「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」にて。1668年5月、雨森芳洲は近江の国雨森郷に生まれたとされる。医学、儒学、語学を学び、外交文書を取り扱う真文役と朝鮮通信使の応接の職務に2度抜擢された
  • 2016年度の助成受贈者として、『ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使』(明石書店)を元下関市立歴史博物館館長の町田一仁氏と共著を出版した
    2016年度の助成受贈者として、『ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使』(明石書店)を元下関市立歴史博物館館長の町田一仁氏と共著を出版した
  • 1936年、京都府生まれ。同志社大学法学部卒業後、京都精華短期大学非常勤講師、京都造形短期大学教授などを経て、2000年4月に京都造形芸術大学歴史遺産学科教授に就任。朝鮮通信使研究の第一人者となる。現在、京都芸術大学歴史遺産学科客員教授
    1936年、京都府生まれ。同志社大学法学部卒業後、京都精華短期大学非常勤講師、京都造形短期大学教授などを経て、2000年4月に京都造形芸術大学歴史遺産学科教授に就任。朝鮮通信使研究の第一人者となる。現在、京都芸術大学歴史遺産学科客員教授
  • 2017年3月14日、韓国文化院で開かれた(公財)韓昌祐・哲文化財団の助成証書授与式での記念講演をする仲尾宏氏
  • 滋賀県長浜市の「高月観音の里歴史民俗資料館」に保管・展示されている雨森芳洲の対朝鮮外交の意見書「交隣提醒」。重要文化財指定。ユネスコ「世界記憶遺産」に登録された333点の資料のうち、雨森芳洲の著作など36点が含まれている。
  • 長浜市にある「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」にて。1668年5月、雨森芳洲は近江の国雨森郷に生まれたとされる。医学、儒学、語学を学び、外交文書を取り扱う真文役と朝鮮通信使の応接の職務に2度抜擢された
  • 2016年度の助成受贈者として、『ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使』(明石書店)を元下関市立歴史博物館館長の町田一仁氏と共著を出版した
  • 1936年、京都府生まれ。同志社大学法学部卒業後、京都精華短期大学非常勤講師、京都造形短期大学教授などを経て、2000年4月に京都造形芸術大学歴史遺産学科教授に就任。朝鮮通信使研究の第一人者となる。現在、京都芸術大学歴史遺産学科客員教授

徳川家康が二度と侵略しないと明言

   公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団から助成を得て、朝鮮通信使資料の再検証に携わった京都芸術大学歴史遺産学科客員教授の仲尾宏(なかおひろし)は、歴史的意義をこう語る。

「世界史における日本の歴史の位置づけとして、大変大きい前進と考えています。江戸時代には『鎖国』を国是(こくぜ)とし、対外関係は一部を除いて閉鎖されていたという観念が幕末以降に広まった。しかし、『鎖国令』が発動されたことはなく、史実の誤りであることは明白です。日本と朝鮮国との間には正式な外交ルートがあり、200年間も戦争がなかった。朝鮮通信使とは平和の使節でもあったのです」

   そもそも「朝鮮通信使」の来日はいかにして始まったのか。

   仲尾によれば、その端緒は豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮侵略、「文禄・慶長の役」の戦後処理にあったという。ちなみに韓国では、任辰倭乱(イムジンウェラン)・丁酉再乱(チョンユジェラン)と呼んでいる。

   この侵略戦争が悲惨を極めたのは、無数の民衆を巻き込んだこと。明確な戦意をもてなくなった日本軍将兵によって、放火、略奪、鼻切りなどの残虐行為が行われ、数万人が日本へ連行された。秀吉の病死後、日本軍は全面撤退に終わる。国交が途絶えた日朝関係が再び動き出したのが徳川政権下だった。

「徳川家康と朝鮮国王第十四代の宣祖(ソンジョ)の決断が大きかったと思います。日本側は対馬藩が朝鮮との貿易再開を切望し、朝鮮側は徳川政権の真意と国内情勢の探索をすすめることにした。そこで義僧兵として日本軍と戦った経験のある松雲大師惟政(ソンウンデサユジョン)が対馬へ派遣され、国交回復は日本側の態度次第であると述べました。京都の伏見城で家康との会見が行われ、家康は二度と侵略はしないと明言した。松雲大師は日本へ拉致連行された朝鮮人被虜(ひりょ)の人々の送還を要求し、幕府も誠意を尽くすと約束します。その後も対馬藩による国書偽造などの問題はあったものの、最終的に朝鮮国王が日本への使節派遣を決定したのです」

   1607(慶長12)年3月、最初の朝鮮使節団が日本の土を踏んだ。対馬から大坂(大阪)、京都を経て、江戸へ到着。一行の総人数は504名といわれる。これ以降の通信使も500名近い人数に及んだが、なぜこのような大使節団になったのだろう。

   往時の記録をたどると、正使、副使、従事官には高級官僚にあたる文官が選ばれ、日本側との交渉や漢詩文の応酬、筆談などに備えて学官なども同行。上級の随員には多くの従者がついた。さらに画家、写字官、歌舞音曲(かぶおんぎょく)の名手を揃えた軍楽隊も参加していた。

「朝鮮側には、国王の国書を徳川幕府に伝達するという外交上の任務だけでなく、礼儀を尽くした使節団とすること。また自国の優れた文化を披露できる人材を帯同(たいどう)し、文化交流したいという意図もあったようです」(仲尾)

公益財団法人韓昌祐・哲文化財団のプロフィール
1990年、日本と韓国の将来を見据え、日韓の友好関係を促進する目的で(株)マルハン代表取締役会長の韓昌祐(ハンチャンウ)氏が前身の(財)韓国文化研究振興財団を設立、理事長に就任した。その後、助成対象分野を広げるために2005年に(財)韓哲(ハンテツ)文化財団に名称を変更。2012年、内閣府から公益財団法人の認定をうけ、公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団に移行した。

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