「大人のおしゃれ手帖」9月号の「とかげのしっぽ」で、俳優の高田聖子(しょうこ)さんが虫をめぐるあれこれを記している。「とうとう蚊に刺されない身体を手に入れた」というキャッチーな一文で始まる、どうにも不思議な味わいのエッセイである。「どんなに皮膚が柔らかく美味しそうな子どもと一緒にいようが、汗びしょで体温高そうな若者に囲まれていようが必ず一番に蚊に刺されていた。そんな私が今、野外に半日いても蚊に刺されていない」高田さんの防護策は簡単で、足の裏をアルコール消毒してハッカ油を塗るだけ。彼女によると、虫には人間には感知できない大好きなにおいがあり、それは足の裏から発せられる。臭いとか臭くないとかではなく、虫だけがわかる微かな香りらしい。そいつを、ハッカ(ミント)の鮮烈な芳香でマスキングしてしまうのだ。高田さんが重宝するハッカ油は、妹さんの北海道土産だという。お陰で今では、野外のカフェでお茶を飲みながら、こうした原稿を優雅にしたためる日々だとか。話はここで、近所の魚屋さんへと急展開する。ただふわふわと「虫に好かれる私だからか、先日不思議なことがあった。突然お刺身が食べたくなって、スーパーやデパートじゃない街の魚屋さんが歩いていける範囲にないかな~とネットで検索してみたら、まさかこんな所にという路地裏にその魚屋さんはあった」魚も店主も、ネットでの口コミ評は悪くない。早速、保冷バッグにドライアイスを入れて出かけた高田さんは、空っぽのショーケースを見て「すでに閉店か」と落胆しかけた。「帰ろうとすると『何をあげましょう』とお爺さんが顔を出した。とっさに『お刺身を...』というと、どうぞ中へと」...店に入ると、驚きの光景が待っていた。「今まで見たことのないほど大量のハエがゆっくりと飛び回っている。あまりにも優雅に舞っているので声も出せないで見入ってしまった。これは幻か...本当にハエなのか...パソコンのスクリーンセーバーのようにいつまでも見ていられる」衛生管理が厳しいスーパー内の売り場ならともかく、戸外に開け放たれた鮮魚店にハエはつきものだ。しかし高田さんが目にしたのは、数匹というレベルではなかった。「天井からぶら下がったハエ取り紙にはもうこれ以上くっつく場所が無いほどハエが捕まっている。やっぱりハエなのだ。どうしよう...」なぜか、魚をさばく店主の手元や周囲にハエは来ない。客の高田さんにも近寄らない。「ただふわふわと一定のリズムで飛んでいるのだった」気がつくと立派な盛り合わせができている。今さらハエを理由に断れない。家に持ち帰った刺盛りに箸をつける気にはならず、ビニール袋の口をきつく閉めて冷凍庫に入れた。ハエが群舞するイメージが重なったのだろう。「あれは夢?と次の日冷凍庫を開けるとカチンコチンのお刺身が鎮座していた」ここで終わってもエッセイは成立するのだが、筆者は完成度を高めている。「ハッカ油をたっぷり塗って、もう一度あの魚屋さんに行ったらハエ達は大騒ぎして逃げ出すだろうか。それともお爺さんの背中にびっしり隠れるだろうか。そんなことを想像しながら冷凍庫の前で途方に暮れるのであった」妄想の続き「大人のおしゃれ手帖」は宝島社が出しているライフスタイル誌で、主な読者層は40代から50代の女性。そのまん中にいる54歳の高田さんは、古田新太さんらの「劇団☆新感線」に所属する。同誌での連載は62回を数え、もはやエッセイストと呼んでもいい。ハッカ油の除虫効果は知られた話だろう。作品は実用的な序盤から、なにやらミステリアスな後半へ、主役を蚊からハエに代えてぐいぐいと展開してゆく。「まさかこんな所にという路地裏にその魚屋さんはあった」というくだりは、初めて足を踏み入れる異界を想像させる。そこには老店主と大量のハエが一定のルールの下に「共生」していて、訪れる客を困惑させる...そんな設定の空想小説のようでもある。「それともお爺さんの背中にびっしり隠れるだろうか」という結末が、〈ハエを自由に操る店主〉という私の勝手な妄想をかきたてる。蛇足ながら「短編」の続きを考えたくなった。後日、主人公はハッカ油で完全武装のうえ出直す。すると、その店は跡形もなく消えていた...そんな感じで如何でしょう。冨永格
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