いまだ生まれざる者の声を聞くことの意義 「仮想将来世代」が可視化する未来の人々とは...

◆「フューチャー・デザイン 七世代先を見据えた社会」(西條辰義編著)

   副題の「七世代先を見据えた社会」は、編著者によると、米国の先住イロコイ族から想を得たものらしい。イロコイ族は重要な意思決定の際、七世代後の人々になりきって考えるという。個人や文化で違いがありそうだが、多くの場合、自分に続く縦の血統として濃厚にイメージできるのは、自分の孫の孫(四世代先)までではないか。「七世代先を見据える」とは、血縁から離れた未来の人々を考慮して意思決定することを意味する。

   我々が目先の利益にとらわれ、過度に楽観的になることはありふれたことである。眼前の課題に集中し、遠い未来を思いわずらうことに思考力を浪費しないことは、人間の生存に有利に働いたことであろう。しかしながら、人間活動の大規模化につれ、長期の利害を熟慮する必要が高まってきた。温暖化ガスが大規模かつ長期に蓄積されることで、未来の人々に災厄が降りかかることなど、慎ましく暮らしていた時代には思いもよらぬことであった。

   市場と民主制という、現在までのところ人間が到達したもっともましな制度でさえ、未来の世代の利害への配慮という点には大きな問題を抱えている。市場は「その時点で生きている人々しか考えておらず、将来の人々などは入り込む隙間すらない」。民主制における有権者とは、現存する一定年齢以上の者に限られる。いまだ生まれざる者の利害が、有権者の利害と同等に扱われると期待するのは甘すぎる。

   この問題認識に基づき、本書が提案しているのが「将来世代を現在に取り込む」ことである。その取組を本書では「フューチャー・デザイン」と呼ぶ。あたかも将来の人間になったかのように振舞う「仮想将来世代」の役を一定の集団に課し、その仮想将来世代と現世代との対話・交渉を通じ、重要な意思決定をおこなうのだという。仮想将来世代を社会で実装する切り口がいくつか検討されており、なかでも、将来世代の利害を代弁することに特化した「将来省」の設置を提案していることが耳目を集める。仮想将来世代が一票を持つのであれば、バランス・オブ・パワーの均衡は将来世代寄りにシフトするであろうし、たとえ票は持たぬとしても、将来世代を人格的存在として可視化することを通じ、現世代の将来世代への共感を高めることができそうだ。編著者によると、著者たちは2012年の春から様々な分野から集まり、研究を重ねてきたという。その取組の現在までの成果である本書が広く読まれることを期待する。

フューチャー・デザイン 七世代先を見据えた社会
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その将来世代とは「誰」のことであるのか

   その期待に立ちつつ、評者として課題を四つ指摘しておきたい。第一は、「その将来世代とは『誰』のことであるのか」ということである。哲学の世界では「非同一性問題」として込み入った議論がなされているが、評者がここで取り上げるのは、実践上の課題である。イロコイ族では七世代後の子孫を考えて意思決定をおこなうとのことであった。七世代後とは、一世代30年とすれば、210年後を考えて決定することを意味するが、果たして、実社会で誰かに仮想将来世代の役を課す場合、彼(女)は、210年後、あるいは100年後、30年後、それとも1000年後の人間、いずれを演ずるべきだろうか。イロコイ族のような定常社会の場合ならまだよい。210年後のための決定とは、つまるところ現在の生活を半永久的に持続可能とする決定を意味する。変化の激しい現代社会の場合、「将来」とひとくくりにいっても、30年後と100年後の利害は対立するかもしれない。温暖化は100年後には顕著な被害をもたらすかもしれないが、30年後にはそうではないかもしれない。30年後、100年後、210年後、1000年後の各世代に対応する仮想将来世代を各々用意することが答えになるのかもしれないが、その場合、各世代の声に平等な重みを与えるべきだろうか、それとも、遠い未来の世代の声は割り引いてしまってもよいのだろうか。

   同様の問題は将来世代の地理的範囲においても生ずる。温暖化の被害はどの国・地域でも一様に発生するわけではない。被害の大きいのはインドやアフリカなど貧しい国々であり、日本や米国の損害はさほどでもなく、寒冷地のロシアに至ってはプラスの純益があるとの試算がある。この利害の地理的偏在を前に、どの国・地域の人間を将来世代として想定すべきだろうか。もっとも被害を受けるインド人だろうか。国家という単位に敬意を表し、日本国民だけからなる仮想将来世代をつくるのがよいのだろうか。

その将来世代とは、どのような「理論」に基づき主張する人たちか

   第二は、仮想将来世代役の人々がどのような「理論」に基づいて主張をするかという問題である。温暖化については、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)という専門家集団が、国際標準ともいうべき温暖化シナリオを検討しているものの、米国では温暖化リスクは過大に見積もられているという見解が依然一定の力を持っている。温暖化よりも経済・財政についての方が、状況は一層混沌としているかもしれない。財政の持続可能性の確保には、一段の社会保障改革(受益減)と歳入改革(負担増)が不可避であるとの見解が、政府や有力な経済学者から発信されている。他方、高い成長によって財政の問題は解決できるという議論(最近では人工知能の活用で労働供給の制約を突破できるという見解がこの議論に加勢している)や、国内で借金が賄えている以上、国の借金は心配するには及ばないという主張が展開されている。なにが正しい理論なのか釈然としない思いを抱いている一般国民は少なくないだろう。こうした状況下では、仮想将来世代がどの理論に基づき意見を述べるかということ自体が、論争の的になる。

   この理論選択の問題は、「将来省」の基礎をなす理論がなにであるべきかという論争に直結する。「将来省」を行政機関として設置するとして、米国の「将来省」は、誰が大統領になってもIPCCと類似の見解を保持することができるだろうか。日本の「将来省」は、成長見通しにおいて保守的な予測をすることを許されるだろうか。「将来省」を立法府に置いても問題は解決しない。むしろ政権という統一的主体を欠くぶん、理論選択の問題は一段と困難となる。政治を離れた専門家集団により「将来省」を構成すればよいのか。ここで問われるのは、「将来省」の依るべき理論の成熟度である。この成熟度とは、科学者共同体での理論の収斂の度合いにとどまらず、一般国民の間での認識の共有の程度にまで及ぶだろう。温暖化に関しては、国内をみる限り見解の分散は広くはないようにみえるが、経済・財政についてはどうだろう。将来世代の議論でよく取り上げられるいまひとつの論題、原子力発電所とその廃棄物処理についてはどうだろう。もっとも、成熟度の高い理論が正しい理論とは限らないことにも注意を払う必要がある。成熟度の高い理論が、現世代の信じたかった理論におわるおそれをどう考えるか。

その将来世代とは、どのような「価値観」を持つ人たちであるのか

   第三に、将来世代がどのような「価値観」を持った人たちであるのか、このことが難題をもたらす場合がある。温暖化や経済・財政、原発ならばまだよい。これらは災害など明瞭なリスクや経済資源の多寡という、比較的価値から自由な事柄を問題としている。

   しかしながら、人間そのもののあり方を左右する政策を問う場合、価値観の問題を切り離すのは困難である。ゲノム編集を通じた人間の改造、人工知能の開発といった分野が該当する。ゲノム編集により人体の機能の改善(例:気分障害の因子の排除、認知能力の向上)が可能になる一方、なんらかの損失を伴う、例えば、詩作の能力を損なう場合、我々は自らあるいは未来の子どもたちにその操作を施すべきだろうか。人工知能は生産性の向上という当面の恩恵をもたらしそうだが、世界の仕事のすべてが機械で代替され、人間のやることは機械からの給餌を受けることのみになるとしたらどうか。詩作や仕事の喜びを失うことは、現在の我々(の一部)からみれば重大な損失であろうが、ゲノム編集を受け、人工知能に育まれた将来世代からみれば、それらの損失を損失と感ずることさえ至難である。この場合、仮想すべき将来世代が、詩作や仕事を喜ぶタイプの人間なのか、詩作や仕事を知らぬ人間なのか、自明な答えは存在しない。

   改めて考えてみると、温暖化などの経済的性格の強い問題であっても価値観に関わる面があることがわかる。野放図な化石燃料の消費を続けた先に生まれる未来の人間は、災害リスクに直面しつつも、ゴージャスでスリリングな生活に中毒しており、主観的には満足しているかもしれない(1000年前の人々からみれば、我々現代人が中毒患者のように映ったとしても、評者は驚かない)。

各論具体化の必要性について

   第四、最後に指摘したいことは各論についてである。本書はフューチャー・デザインのアイデアを提示する総論的な諸章に加え、科学技術、水・大気、まちづくり、森林管理、地下水管理などの個別分野を扱った諸章から構成されている。各論の諸章において、総論で示したアイデアをいかに応用するのかもっと具体的に展開してほしかったといえば、高望みが過ぎるだろうか。

   例えば、科学技術が長期投資の性格を持つことから、なんからの将来世代の関与が必要だということまではなんなく理解させられるとしても、「総合科学技術イノベーション会議の強化が必要です」と述べるとき、その強化がいかなる意味での強化なのかは漠然としたままである。将来世代の利害を踏まえたまちづくりという課題はpromisingであり、コンパクトシティ政策への着眼も適切である。しかしながら、仮想将来世代の目をどう取り込むことで、どのように問題が解決されるのか、明確なイメージを与えるには至っていない。同じ町の将来世代とはいえ、中心市街地と中山間地の住人では利害は異なるはずであるが、こうした対立をどう解きほぐすつもりなのか。また、町の意思決定システムのどこをどう変えればよいと考えているのだろうか。

今後の一層の知的作業に期待

    社会問題の長期の視点に立ったよりよい解決に向けて、本書が提案するフューチャー・デザインというアイデアには、人を惹きつける魅力がある。他方、そのアイデアを実践に移すには整理すべき課題がなお多い。本評で指摘した論点の考察を進めることで、アイデアは実践に向けて近づくことができるのではないか。そして、今後は個別の問題の解決に貢献した実例を積み上げることで、一般の関心と支持を獲得することが必要であろう。小回りの利く、まちづくり・地方行政の分野で実験的な取組を進めることがひとつの手掛かりになるのではないか。実社会で直ちに応用することの難しい課題であれば、教室や市井での実験を通じて知見を得ることが有益であろう。関係者による今後一層の知的作業に期待するものである。

経済官庁(課長級)Repugnant Conclusion

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