フランスに足を踏み入れたことのないバッハが書いた 見事な「フランス組曲」

   先週は、ブラジルを代表する作曲家、ヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」を取り上げましたが、今週は、本家、J.S.バッハの鍵盤楽器のために書きあげた、「フランス組曲」を取り上げましょう。


現代の楽譜には 『フランス組曲』と表記されている
現代の楽譜には 『フランス組曲』と表記されている
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音楽家は旅が多くなるのが普通なのに

   現代ではフランス組曲と呼ばれている6曲からなる組曲は、実はバッハの命名ではありません。バッハはただ単に「組曲」と記しただけなのですが、明らかにフレンチスタイルの組曲を構成する舞曲、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグといった曲を含めて作られているため、誰からともなくフランススタイルの組曲=フランス組曲と呼ばれるようになってその名が定着したのです。

   音楽は、国境がないといわれますが、むしろ、国境は大いにあります。しかし、それぞれの国独自の良い音楽があるから、国境を越えて愛されるのです。そのことを音楽家たちはよくわかっており、音楽家は比較的旅が多くなります。バッハと同年代のヘンデルは、若いころイタリアに武者修行に行き、ドイツからイギリスに移り最終的には帰化までしてしまいますし、古典派のモーツアルトは人生の3分の1が旅でした。巨匠ベートーヴェンもドイツ生まれですがウィーンに住んで、頻繁に旅行もしています。しかし、J.S.バッハは雇い主との関係で、多少居住地を替えましたが、生涯北東ドイツのチューリンゲンやザクセン地方で暮らしました。彼は1度もドイツ国境を越えたことがなく、イタリアにもイギリスにも、そしてもちろんフランスにも足を踏み入れたことがありません。若いころは貧しくて徒歩旅行ぐらいしかできなかったということや、プロになってからは比較的職場に恵まれた、そして子沢山だったというような理由が考えられますが、なぜなのかは、今もって謎です。

旺盛な創作意欲で外国の作品の楽譜を取り寄せて勉強


第5組曲のドイツ風舞曲『アルマンド』

   それでも、バッハには、ドイツとは違う、外国の音楽の長所や魅力を重々理解していました。インターネットはもちろん、ファクシミリや電話さえない世の中でしたが、楽譜の流通はヨーロッパ内で成立していたため、バッハは外国の作曲家の作品を自国の先輩たちの作品と合わせて、楽譜を取り寄せて研究することによって勉強してゆきます。自分の中に蓄積したものを、今度は作品として結実させることも怠らず、バッハは一生フランスに行くことはなかったのですが、見事な「フランス風組曲」を成立させます。ちょうどそのころ仕えていたケーテンの領主が音楽好き、器楽好きだったということもあり、バッハはたくさんの器楽曲を作曲することが出来る環境にあったということもありましたが、旺盛な創作意欲で、フランスで盛んだったチェンバロ組曲のスタイルをバッハスタイルで成立させたのです。

   同時代の作品に同じようなスタイルの「イギリス組曲」と呼ばれる組曲もありますが、フランス組曲のほうが、よりシンプルで、繊細な美しさにあふれており、より一層フランス的とされています。

   厳格なドイツおやじ、のイメージがあるバッハですが、音楽の興味は、フランス宮廷で流行していた典雅な「クラヴサン(チェンバロのフランス語)文化」まで及んでおり、結果として、これらの素敵な曲を残してくれたのです。ちなみに、組曲の冒頭に置かれる舞曲「アルマンド」はフランス語で「ドイツ風舞曲」という意味であり、ドイツのバッハが、ドイツで、フレンチスタイルの「ドイツ風舞曲」を作曲していた、と考えると、自国の音楽文化を他国から眺める・・・その音楽的客観性に凄さとおかしさを感じてしまいます。

本田聖嗣

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