「こども保険」という社会保険について考えてみる ―合意のためのふたつのレトリック

   ■『福祉の経済学―21世紀の年金・医療・失業・介護』(ニコラス・バー著、光生館)


   『福祉の経済学』(2007年、原著2000年)は、英国LSE教授のバーによる著作である。情報の経済学の概念を使って、社会保障の諸制度、とくに社会保険の経済学的効率性の観点からの根拠づけを試みている。年金や医療などの社会保障制度を民間保険により代替するよう提案されることがある。この手の提言は一時よりは耳にすることが減っているとはいえ、現代経済の基礎が市場経済にある以上、繰り返し問われる事柄であることに変わりはない。

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社会保険は経済の効率性、厚生を高める

   本書によると、民間による運営が可能な「保険数理的保険」は、「関連する確率が独立していて、既知で、1より小さいものであって、かつ重大な逆選択とモラルハザードがない場合」であるという。失業保険を例にとると、マクロ経済の状況によって失業は左右されるため、各人の失業確率は独立ではない。長期の経済変化は確率的な事象であるリスクというよりは、不確実性という確率では表現できない性質を持つ。また、失業の確率は人によって違うにも関わらず、保険者には観察可能ではないから、保険に入るのは失業しそうな者ばかりになる恐れがある(逆選択)し、いったん保険にはいると、失業者になろうとする誘因を持つ(モラルハザード)。こうしたことから、社会保険として強制加入による失業保険の導入が必要となるといった具合である。

   ここで導入される社会保険とは、純粋な「保険数理的保険」とは異なるものであるから、もはや任意に加入されたり、加入されなかったりするものではないけれども、民主的な政治・社会的な合意を経ることで正統性を得て、導入されるものである。その合意を得る過程では、一定の見返りがあるというレトリックで被保険者を説得することが可能であるにとどまらず、社会保険が導入されることで、経済的な効率性、ひいては厚生を高めることができることが眼目である。

   例えば、社会保険として失業保険が導入されることで、各労働者は、いざ失業したときに備えて普段過剰に貯蓄(消費を抑制)せずに済むことになる。こうしてもたらされる生涯を通じた消費の平準化は、効率性と厚生を増す。

「こども保険」という社会保険

   純粋な「保険数理的保険」からの乖離を許容しながら、なおも一定の条件の下での反対給付に基づいて保険料の支払いを説得し、かつ社会全体の効率性を高めることができる、この社会保険という発明は、現代社会になくてはならない一大イノベーションである。我が国の社会保障制度もまた、その根幹にこの社会保険という仕組みをおいていることは、多言を要しないだろう。

   この社会保険という仕組みを、子育て関連の事業や給付に用いようという提案が、この3月に自民党の小委員会から出された「こども保険」である。この保険は、「子どもが必要な保育・教育等を受けられないリスクを社会全体で支える」ことを目的とし、厚生年金保険料に付加して労使から徴収する財源を、幼児教育・保育の無償化(児童手当の拡充)や保育所の整備に充当するという。

   この提案に対しては、子どもを持たない者からも保険料をとることの是非や、子どもがすでに独立した高齢者から保険料をとることの可否(現行案は現役世代からの徴収を想定)、ひいては税との役割分担など、様々な議論が出ている。こうした指摘に対しては、子どもが幼児教育・保育を受けられないリスクをそのままにすれば、少子化は止まらず、それは社会的な損失であり、そうしたリスクを社会全体で支えあう必要がある、といった線で説明されているようである。

「こども保険」のふたつのレトリック

   「保険数理的な保険」であることを離れた社会保険として提案されている以上、この線での説明ぶりが、どの程度の合意調達能力を持つのかが、今後議論されていくことになるのだろう。東京新聞(17年6月24日)によると、すでに慶応義塾大学の権丈教授(※)が、「少子化対策を進める→将来の(年金・医療・介護の)給付水準が高まる」というレトリックを導入することで、「こども保険」の合意調達能力を改善する提案をしている。ここでいうレトリックとは合意のための言葉の技術という意味で使っているのであるが、このレトリックを延長していけば、年金などの既存の社会保険の基盤を強化することで社会全体の効率性や厚生が増えるという議論が可能になるから、バーのいう社会保険導入の正当化まであと一歩に迫ることになる。

   評者は、こうした説明はひとつの説明たりうると思うし、どのようなレトリックであれば是として受け入れることができるか、いままさに社会的な議論がはじまったところであると受け止めているのである。その一方、説明の仕方にはもうひとつの可能性があり、その可能性を深掘りすることで、「こども保険」論議に一段の深みを持たせることができるのではないかとも考えているのである。

   その可能性とは、「こども保険」のそもそもの目的として提示されていた、「(子どもが)必要な保育・教育等を受けられないリスクを社会全体で支える」ことに徹底してこだわることである。子どもを持つ親や社会にとってリスクを語るのではなく、保育・教育を受けられない「子ども」自身にとってのリスクに純化したレトリックを考案することである。

   生まれる前の子どもなるものを想像することが許されるとするなら、その子どもが、どこの家庭に生まれ、どのような教育の機会を与えられるのかは、まったくの偶然であるから、その子どもはまさにリスクに直面しているのである。であるとすれば、その出生前の子どもの直面するリスクへの社会的対応として、一定水準の幼児教育・保育を公的に保障することとし、その財源として、かつて出生前には十分な教育・保育を受けられないリスクに直面していた成人から事後的に保険料を徴収するのである。成人にはもはや自発的に保険料を払う誘因がないから、保険料は社会保険料として強制的に徴収される。子ども本人にとって幼児教育が生涯にわたる経済・社会的な幸福の度合いを大きく左右する要因であるとする最近の研究成果からみるなら、もしも出生前に一定水準の教育の保障と引き換えに保険料を払う仕組みがあったのなら、多くの者が保険に加入したことであろう。そういう意味で、この「こども保険」の導入は全体の効率性、厚生を高めるに違いない。

   この出生前の子どもというレトリックは突拍子のないものではなく、ロールズの「無知のベール」以降、むしろありふれたものである。ロールズによれば、「無知のベール」の向こう側での選択では、もっとも不遇な人間に好都合な制度が選ばれるという(格差原理)。リスク回避的な人間が、いかなる境遇に生まれるのかわからないのであれば、格差原理に沿った選択をすることはもっともらしいシナリオであり、これは一種の保険の考えに基づくものとの解釈もできる(ただし、ロールズ自身は、自身の考えを保険の視点から解釈することに否定的である)。法哲学の大家ドゥオーキンは、本人に咎のない事由による差異の補償を公的に担保する「仮想的保険市場」というアイデアを提示したことで知られる。どの家庭に生まれるかは本人に責任がないことであるから、仮想的保険市場を通じて集めた保険料で、一定の幼児教育を保障することは、理由のないことではない。「こども保険」は一種の「仮想的保険市場」なのである。

   実社会での議論において、出生前の子どもというレトリックが、どこまで広く受容可能であるかは、議論のあるところに違いない。現時点の成人は、幼児教育・保育の保障をうけないまま成人したのであるから、保険料を払ういわれはないという反論が予想される。これに対しては、過去の幼児教育・保育の程度(陰に陽に社会により支えられていたと想定する)と現在の所得に一定の相関があることに基づき、所得比例の保険料をとることで、さらに、導入当初は低い保険料率からはじめることで、説得できるかもしれない。

   実際の「こども保険」の議論においては、これらレトリックの取捨選択にとどまらず、その財源をなにに使うのかという点も大きな論点になる。幼児教育・保育の無償化なのか、待機児童の解消なのか、所得制限の有無など、これらの仕組み方によっても、「こども保険」の社会的な説得力は変わってくるだろう。例えば、明治大学の田中秀明教授は、現在提案されている一律的な現金給付には否定的な見解を示している(17年5月11日朝日新聞)。現在税財源が充当されている子どもの貧困対策については、本人に責任がない不利な条件の補償という「仮想的保険市場」の発想を敷衍するなら、「こども保険」の対象事業とするとの整理もできるかもしれない。

   評者としては、今般の「こども保険」論議を契機に、幅広い視点から深みのある議論がおこなわれることで、子育てへの社会の関与のあり方についての社会的合意がひとつの形をとることを期待したい。

   ※氏の著作について、評者は「年金論議で羅針盤がひとつほしいのなら手に取る書」(17年3月)で取り上げたことがあり、一読いただきたい。

経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion

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