痛快! 歴史的タブーに切り込んだ「不遜な歴史書」

   ■『科学の発見』(スティーヴン・ワインバーグ著・赤根洋子訳、文藝春秋)


   歴史学の主流は、過去を過去として尊重し、現代の基準を当てはめて過去を裁くことをタブーとしてきた。だが本書は、古代ギリシア以降の自然科学史上の偉人の業績を、現代科学の視点から批判的に分析して見せる。著者自身が「本書は不遜な歴史書である」と位置付ける、異色の本だ。

   著者は、こうして歴史学のタブーを冒すことで、科学の発展段階を可視化し、ひいては現代の学問全般に対する警鐘を鳴らすことにさえ成功したと評者は見る。

   米サイエンス界のダイナミズムを感じさせる好著というべきだろう。

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アリストテレスの非科学的思考をリセット

   本書で語られる科学とは、「森羅万象を説明するために、数学的な公式と実験に裏付けられた客観的な法則を追い求める」(本書P10)営みといえる。

   人類史において、農業の発見と並び、こうした科学の発見が大きな歴史の転換をもたらしたことは、日本でもベストセラーとなった『サピエンス全史』で活写されている。本書はその科学の発見を、主として天文学と物理学の切り口から克明に説明していく。

   前半(第一部~第三部)は、科学の発見以前の物語だ。

   宗教を含む主観と客観とが未分離であることを原因として、古代から中世の自然観察にどのような過ちがあったかを述べる。アリストテレスも厳しい批判を免れない。著者が「(中世キリスト教会がアリストテレス学説に対して行った)異端宣言がアリストテレス絶対主義から科学を救った」(本書P180)とするくだり、いわばキリスト教がアリストテレスの非科学的思考を一度リセットしたが故に、その後の科学の発見が早まった、との主張は特に印象的である。

   後半(第四部)では、光が射すように「科学」が産声をあげる。コペルニクスが過ちを多く含みなお科学的ではないながらも、太陽系の解明に大きな仮説を投げかけたことを鏑矢とし、ケプラーの三法則そしてガリレオの実験装置の科学的価値を語る。時代をさらに下り、ベーコン、デカルトをなで斬りにした後、クライマックスとして革命者たるニュートンが登場、著者はここに「科学」の確立を高らかに宣言する。この過程はエキサイティングで一気に読み通せる。そして現代科学の最先端に至る思考の変遷を概説するエピローグで本書は幕を閉じる。

   科学史を説明しながらも、著者の語り口は無機的ではない。新たな発見の喜びこそが科学発展の原動力となることを力強く説明する第十四章の結びは感動的ですらある。学究の熱意を感じつつ、読者は人間の歴史上の思考の系譜を、あたかも一人の人の成長過程かのように追体験できるであろう。

古代ギリシアの哲学者たちは「詩人だった」

   著者は1979年にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの理論物理学者であり、本書奥付によれば「本書は歴史家や哲学者の大反発を呼び、2015年欧米の論壇でもっとも物議をかもした一冊となった」とある。さもありなん。歴史学者の伝統的姿勢を正面から否定するのみならず、古代ギリシアの思索を科学ではないと断罪し、哲学者たちは「詩人だった」と喝破するのである。

   だが、高校や大学の社会思想史でタレスの「万物は水である」から始まる哲学史を学び、なぜ哲学者がモノの組成を語るのか、と素朴な疑問を抱いたであろう多くの人にとって、本書はその霧を晴らしてくれる最高のガイドブックともなろう。

   科学的思考の萌芽に対し、イスラム教とキリスト教がそれぞれどう対応したかも詳述されるが、これが真に興味深い。

   ギリシアの到達点を承継したはずのアラブ世界は、イスラム教の伸長にしたがい科学的思考の獲得から遠ざかっていく。全ては神の力に拠ると徹底して信仰するが故に、自然法則の意味そのものを否定する教義が現れるからである。11世紀にバグダッドで活躍したアル=ガザーリーの『科学の起源』(何と皮肉なタイトルか!)の内容を著者は紐解いて曰く、「酒は肉体を活気づけるが、それでもイスラム教徒には禁じられている。同様に、天文学や数学は精神を活気づけるが、『それでも、それらを通じて危険な説にひきつけられてしまうことをわれわれは懸念する』のだ」。中世キリスト教会が紆余曲折を経ながらも、自然法則の研究を「神が通常起こそうとすること」を研究するとして、神への信仰との折り合いをつけたことと、この姿勢は決定的な違いとなる。

   本書を通じて、評者は、現代社会のイスラム教が、教義及びその信仰姿勢の徹底度において、抜きがたい困難を包摂していることを改めて痛感した。そしてそのうちの原理主義一派が、信仰の名の下に、教義が否定し続けてきた科学による陰の果実たる近代火器を用いて暴虐を働く様を、複雑な思いで凝視せざるを得ない。

   また評者は、千年後の学者が、現代の学説を批判的に考証する姿を思い浮かべる。現代もいずれ過去になる。本書を読むにつれ、現代の学問を無条件に信奉する危うさに思いを致してしまうのは、考え過ぎであろうか。自然科学でさえこれほどの生みの苦しみを経てきたとすると、例えば経済学は、今どのような発達段階にあるのだろう。千年後の学者は現代経済学をどう裁くであろうか。

   我々は、現代の経済学説が不完全でありうることを承知している。だが、代替するものがない以上、その不完全なものに依拠して、一国の経済政策は推し進められていく。それが時代の限界というものなのかも知れない。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

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