回らない寿司屋 金田一秀穂さんが注目する呼称の「再命名」とは

   サライ6月号の「巷のにほん語」で、金田一秀穂さんが「呼び名のつけ直し」について書いている。言語学では再命名(レトロニム)というそうだ。

「寿司屋は寿司屋だった。ところが、回転寿司屋が多くなって、寿司屋で奢ってやるよと言われても、以前ほどの特別感がなくなってしまった。それで、昔ながらの寿司屋を『回らない寿司屋』というようになり...」

   あえて「回らない」とつけないと、ごちそうする(される)特別感が出ない。めったにない奢りの優越感、逆の立場からはありがたみが薄れてしまうのだ。

「以前は当然だったから特別な名前が要らなかったけれど、時代が変わって、それをわざわざ言わなければならなくなって、新しい言葉が生まれる」

   筆者によると、「和食」も再命名である。江戸時代までは和食がすべてだから、単に食事といえば済んだ。それが明治以降、洋食の普及につれて「和」という断りを入れるようになった。いまや洋食も細分化され、イタ飯にフレンチ、アメリカン。エスニックだけでもインド風、ベトナム風と色々ある。単に洋食屋といえば、日本で独自進化したオムライスやハンバーグ、エビフライなど、各国料理に分類できないメニューを扱う店を指す。

「そのうち、中華料理の地方差の潮州料理、福建料理のように、ボンベイ料理とかハノイ風フォーなどといわれて、結局よくわからなくなってしまうのかもしれない」
寿司が回る時代、回らない店を何と呼ぶ?=杉並区で
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コロナ禍で増殖

   金田一さんは専門家として「新しいことばが出てきても、遺憾とも思わず、むしろ面白がるほう」だという。それでも、外食に対して内食(うちしょく)なる新語が出てきた時には驚いたそうだ。

   「要するに家でご飯を作って食べることで、それは人類が20万年間やってきたことに他ならない。それを違う言い方が要るのか」と。

   コンビニやスーパーで出来合いの総菜を買って帰る中食(なかしょく)もある。

   これら内食や中食についても言えるが、コロナ禍は再命名を増やす結果となった。筆者が例に挙げたのは「有観客ライブ」と「対面授業」である。

   ライブコンサートと呼ぶ以上、目の前に客がいて当たり前だった。ところがオンライン生配信が珍しくなくなり、従来型の公演は「有観客」と断ることになった。

   授業も同様だ。教師と学生が同じ教室内にいるのが当然だったのに、多人数を同じ空間に詰め込んだら「密」になるということで、オンラインでの中継が広まった。結果、従前の形式には「対面」がつくようになる。

「コロナ禍によって、私たちが当たり前だと思っていた暮らし方がとんでもなく変化させられた。ことばの面からもよく分かる」

否定形を超えた名に

   色つきが当たり前になって「モノクロ写真」「白黒テレビ」の言葉が生まれた。ケータイの全盛下、デスクに鎮座する従来型には「固定電話」という呼称が付いた。再命名は、区別する必要から生まれた苦肉の知恵でもある。

   〈新たな技術や概念の登場により、既存の言葉では対象を十分に示すことができなくなった場合、再命名が促される。既存の言葉(例えば電話)は、新語(携帯電話)と再命名(固定電話)を包含する上位概念に昇格する〉というわけだ。

   いずれ、クルマと言えば「電気自動車」のことになりそうだし、エンジンがある旧来型は「内燃車」あたりに置き換わるだろう。

   「回らない寿司屋」に関しては、日常語として定着しているとは思えない。

   「寿司でも食おうか」「スシロー?」「いや回らないほうで」といった会話は普通に交わされているだろうが、「回らない寿司屋」は新語としては長すぎる。「無回転寿司」「固定寿司」「不動寿司」「対面寿司」「本格寿司」...どれもしっくりこないのだが。

   金田一さんがあえて「回らない」話から始めたのは、身近で分かりやすい事例だからと思われる。いまや寿司屋にも色々あって、各自の認識はさまざま。とりわけご馳走になる側にすれば、回るのか回らないのか、これが最大の関心事である。

   「回らないほう」にもそろそろ、否定形ではなく前向きな、格と出費に見合う気の利いた呼称がほしい。

冨永 格

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