2024年 4月 26日 (金)

「テニスコートの恋」の真相 皇太子さまご結婚は「お見合い」か
元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(1)

   軽井沢のテニスコートで始まった皇太子さま(現天皇陛下)と美智子さま(現皇后陛下)の恋......漠然とそんなイメージを抱いている人も多そうだ。しかし、お妃選びが最終局面を迎える1958年当時に「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は、「お2人のご成婚が単純な恋愛結婚だった、というイメージは事実と異なる」と考えている。(以下、呼称は当時のものです)

   佐伯さんに話を聞く第2部は、皇太子さまと美智子さまのご成婚について、「世間のイメージ通りの恋愛結婚だったのか、それとも周囲によりお膳立てされた『調整された結婚』だったのか」をめぐる佐伯さんによる分析・推理を紹介する。

   2002年に出版された本で明らかになった当時のお妃選考首脳の日記資料などを踏まえ、当時の取材経験に照らしながら比較的最近になって佐伯さんがたどりついた結論だ。第2部初回は、皇太子さまの「恋愛結婚」が、当時の国会で問題にされた状況について語ってもらう。

宮内庁長官が国会で「恋愛説」否定

お二人が初めてテニスをされたときの写真を紹介した朝日新聞の連載記事。
お二人が初めてテニスをされたときの写真を紹介した朝日新聞の連載記事。

   皇太子さまと美智子さまのご成婚に関して、「軽井沢のテニスコートで芽生えた恋」というイメージが定着しているようです。

   しかし、皇太子さまご婚約の発表(1958年11月)から、しばらくたった1959年2月6日の衆院内閣委員会で、宇佐美毅・宮内庁長官は、はっきり「恋愛説」を否定しています。ご成婚(59年4月)の2か月前のことです。

   宇佐美長官は、自民党の平井義一議員の質問に対し、「世上で一昨年(57年)あたりから軽井沢で恋愛が始まったというようなことが伝えられますが、その事実は全くございません」と答えています。

   1957年に軽井沢でテニスをしたのは事実だと認めた上で、皇太子さまについて、「世上伝わるような浮ついた御態度というものは、(略)全然お認めすることはできません」と「恋愛説」そのものを否定しています。

   なぜ「恋愛説」を否定したかというと、当時はまだ、世間一般の感覚としても、まだ「良家の子女はお見合い結婚が当たり前」という空気が濃厚に残っていた時代だったのです。

「そんなはしたないことは許さない」という守旧勢力

   先の平井議員は、「殿下が軽井沢のテニスコートで見初めて、自分がいいというようなことを言うたならば、ここにおられる代議士さんの子どもと変わりない」「これが果たして民族の象徴と言い得るかどうか(略)」などと質問しています。皇室の尊厳の問題について強く懸念している質問となっています。

   「恋愛結婚」説をめぐる推理に入る前に、1958年11月のご婚約発表に至るまでの当時の雰囲気を紹介しておきましょう。

   宮内庁幹部らによるお妃選びが本格化したのは、ご婚約の3年前の1955年からとみられます。55年当時、皇太子さまは21歳でした。

   当時は、「皇太子さまの恋愛結婚など、そんなはしたないことは許さない」という守旧勢力がいました。「皇太子妃になる人は、皇族か旧華族、それも家柄の格の高い旧華族の者で、厳密に選考された人でなければ」という発想で、「民間からのお妃」や「恋愛結婚」なんてとんでもない、という人たちです。

   例えば、学習院女子中・高等科出身者でつくる「常磐会」の主流派。当時の皇族の宮妃殿下や旧華族の奥さんらが多くいました。宮中の女官らもおり、隠然たる発言力をもっていたのです。

お妃選びは旧華族のお嬢さん中心に進んでいた

   常磐会の当時の会長が、秩父宮妃殿下の母、松平信子さんでした。皇太子さまの教育係を務めたこともあり、かなりの発言権と影響力をもっていました。また、(昭和天皇の)皇后陛下もそうしたご意向だとみられていました。

   女性ばかりではなく、宮内庁の旧華族出身職員らなど、少なからず同様の意見をもっていました。

   こうした空気を背景に、当初は旧華族のお嬢さんらを中心にお妃選びの選考が進んでいました。しかし、旧華族といっても、経済的に没落しているところも結構多くて、さすがに倒産したところの娘さんは無理だ、というケースもあったようです。

   ほかにも、親族の病歴などでもはじかれていました。逆に宮内庁側が断られることもあり、ご婚約の前年、1957年の4月にはある旧華族とみられる家から、お妃選考首脳が「拝辞(へりくだった辞退)」されたことも分かっています。

   旧華族のリストだけでは手持ちの数が心もとなくなってきたのでしょう、1957年秋ごろからは民間の女性まで対象に広げる必要がある、と一部の選考首脳らは考え始めたようです。


<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>


<佐伯晋さんプロフィール>

1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。

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