2024年 4月 27日 (土)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(36)
有名無実化した「戦争の原価計算」

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ブレーン活用できなかった日本海軍

   日本海軍は有能な人材を陸軍に重用されるのを恐れて、1938(昭和13)年から一般大学の法学部や経済学部、商学部の卒業生で大手企業や官庁に入っている新人に的を絞り、厳しい試験で短期現役士官制度(短現)を適用させた。半年、あるいは1年間、みっちりと教育して戦争の原価計算を教えたのである。中曽根康弘元首相も1941(昭和16)年、東京帝大を卒業後、内務省に入省するが、この短現制度で海軍主計中尉に任官している。このグループは、本来なら戦争の原価計算を通じて戦争の意味を考えるブレーンの役割を果たすことも可能であった。しかし現実には海軍のどの部門も自らの損害など教えることはなかったし、主計将校が調査に赴いたところで事実を伝えて、損害の実態を示すわけではなかった。

   そのために主計将校の存在などは有名無実と化していった。日本には戦争の軍事学はまったく育たなかったのである。3年8ヶ月の太平洋戦争は当初の意思とは別に、次第に予算の裏付けもない戦いに変質していったのだ。

   主計将校は机に向かって数字を見るのではなく、大体は司令官や連隊長の周辺にいる参謀のような役割を演じることになった。中には戦闘に参加する主計将校まで存在した。これはある将校の話だが、確かに当初は、つまりは戦争に勝っているときはきちんと会計帳簿もつけていたが、次第に記述することもなくなり、戦闘の渦中に引き込まれたというのであった。もし戦争の原価計算を正確に行っていたら、日本軍の敗戦は、経理将校なら真珠湾から1年ほどで知ることになったであろうと断言していた。

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