2019年 5月 21日 (火)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(36)
有名無実化した「戦争の原価計算」

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   戦争を国家的な事業と考えた場合、利益を上げるとすれば勝つとこと以外の選択肢はない。そこに無理があったのは、前回の稿でも触れたのだが、開戦時の蔵相であった賀屋興宣がいみじくも語ったように、戦争はそれ自体軍人たちの権益を拡大することであり、簡単には引けなかったと言えるように思う。

  • 「戦争の原価計算」は有名無実化した(写真はミッドウェー海戦)
    「戦争の原価計算」は有名無実化した(写真はミッドウェー海戦)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん

財源不足指摘され「それでは紙幣を印刷すればいいではないか」

   しかし戦争には経済的な側面があり、膨大な軍事費を必要とする。つまり国家予算をつぎ込んで戦う消耗戦である。精神論に傾斜する軍人には、この面が見えない。財政専門家たちの戦後の回顧録に見られるのだが、軍事費の財源不足を訴えても、「それでは紙幣を印刷すればいいではないか」という程度の認識の軍事指導者がいたそうである。あるいは大蔵省の陸軍担当の主計官が予算をカットするのを怒った軍事指導者が、「陸軍の言い分を聞かないのは統帥権干犯だ」とサーベルで床を叩いて威圧をかけることもあったという。

   戦争も行き着く先は原価計算の世界である。最小の投資で最大の戦果を上げるというのが鉄則である。そういう計算を行うのが経理将校(主計将校)である。例えばある海戦が行われるとすると、そこに日本側はどれだけの艦艇でどれほどの武器弾薬を用いて、アメリカ軍との戦いを行ったかを計算する。その戦いで日本海軍が与えたアメリカ軍の被害、同時に日本側が受けた損害などが数量化されていく。大破した艦艇があるのなら、その修繕、改修にはどこから鉄を調達するか、その予算はどれほど必要かなどが、たちまちのうちに試算されていく。この艦艇は修理すべきであるとの結論が出たら、応急手当てで修理の後に再び前線に出ていくのである。主計将校のそうした計算はきわめて厳格に行われなければならなかった。

   こうした数字が積み上げられて、戦争の継続の可否が決定される。むろん戦争に勝って賠償金を獲得するというのは、このような数字が基礎になって賠償額が決められるのであった。

ブレーン活用できなかった日本海軍

   日本海軍は有能な人材を陸軍に重用されるのを恐れて、1938(昭和13)年から一般大学の法学部や経済学部、商学部の卒業生で大手企業や官庁に入っている新人に的を絞り、厳しい試験で短期現役士官制度(短現)を適用させた。半年、あるいは1年間、みっちりと教育して戦争の原価計算を教えたのである。中曽根康弘元首相も1941(昭和16)年、東京帝大を卒業後、内務省に入省するが、この短現制度で海軍主計中尉に任官している。このグループは、本来なら戦争の原価計算を通じて戦争の意味を考えるブレーンの役割を果たすことも可能であった。しかし現実には海軍のどの部門も自らの損害など教えることはなかったし、主計将校が調査に赴いたところで事実を伝えて、損害の実態を示すわけではなかった。

   そのために主計将校の存在などは有名無実と化していった。日本には戦争の軍事学はまったく育たなかったのである。3年8ヶ月の太平洋戦争は当初の意思とは別に、次第に予算の裏付けもない戦いに変質していったのだ。

   主計将校は机に向かって数字を見るのではなく、大体は司令官や連隊長の周辺にいる参謀のような役割を演じることになった。中には戦闘に参加する主計将校まで存在した。これはある将校の話だが、確かに当初は、つまりは戦争に勝っているときはきちんと会計帳簿もつけていたが、次第に記述することもなくなり、戦闘の渦中に引き込まれたというのであった。もし戦争の原価計算を正確に行っていたら、日本軍の敗戦は、経理将校なら真珠湾から1年ほどで知ることになったであろうと断言していた。

戦争末期には兵站無視するように

   私が取材した経理将校からは、「我々は戦争の舞台裏を見たので、戦争がどれほど経済的にも馬鹿馬鹿しいか」を何度も聞いた。いかに多くの相手の航空機や船舶を撃沈させたとしても、アメリカ側の戦力は次から次に新型兵器をつぎ込んでくる。このことは、兵器の単価がアメリカ側は次第に安くなることを意味する。逆に日本の航空母艦はそれこそ国の宝のような扱いを受けているものの一隻建造しても作戦行動に加わらずにアメリカ軍によって沈められたりもする。その費用対効果はゼロになっていく。

   戦争末期になれば、特攻作戦や玉砕戦術は戦争の経済学では何の意味を持たない。兵員の戦死は、その一時金や恩給などのほか遺族への見舞金などで財政的にも痛手である。主計将校が、戦争の挫折の時期から崩壊、解体と進んでいく時期に実際のところ不要扱いされたのは、こうした計算をし始めたら天文学的な数字になるだろうと恐れたためだった。それゆえ「原価計算なき戦争」に入っていったことになる。

   戦争末期になると軍事指導者は、兵站の一切を考えない。全て現地で調達せよとの命令をひたすら通達し続けたのである。旧華族の徳川義親は、南方の戦線を見て東京に戻り、軍中央の指導者と会ったらほとんど全員が肥えているのに愕然とした、と書き残している。南方の兵士たちは餓死しているというのに、というのだ。(第37回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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