2026年2月の衆院選の茨城一区に無所属で出馬した福島伸享・前議員は8万4703票を獲得したが3000票弱の僅差で落選した。無所属だから、もともと比例復活は望めない。福島氏は経産省出身で当選4回、衆院選挙制度の抜本改革を目指す超党派議連幹事長も務める有力議員だった。高市一強、嵐のような選挙戦を終えて2か月、あの選挙は人物を見るという選挙ではなく「記号化された情報」を選択するだけだったと振り返る。議会制民主主義の基本が崩れていると感じたという。どういうことなのか、福島氏に聞いた。
(聞き手 ジャーナリスト・菅沼栄一郎)
「タカイチ」というコンテンツがネットの中で刺さり、どんどん増幅された
高市早苗首相が「挑戦しない国に未来はありません」と呼び掛ける約30秒のメッセージ動画広告が、公示日前日からユーチューブで公開され、1億6000万回は再生された、と言われる。自民党は、ネット広告を打つ対象を、10代20代30代の単身世帯に絞った、と自民党筋に聞きました。従来は投票に行かない「選挙に初心(うぶ)な人たち」を巻き込んだところに狙いがあった。
これは「広告のプロの仕業」だと思います。従来は、ターゲットにしなかった層を掘り出し、そのコンテンツとして「タカイチサナエ」を使ったところに、戦術のポイントがあります。
違法性はない。候補者の選挙活動には制限があるけれども、政党の政治活動に対して費用の上限はない。法律にのっとって、やったわけだから、何ら責めるべきものではない。
ネット広告は、おカネをどんなに使ってもダメなものはダメ。「タカイチ」というコンテンツがネットの中で刺さり、どんどん増幅されて、5億円の効果が50億円くらいに膨らんだ。
だれに投票すべきか「答えはスマホのなかにある」
これまで投票にほとんど行ったことのなかった人が、なぜ、わざわざ投票へ行き、しかも見ず知らずの「自民党の候補者の名」を書いたのか。
うちの息子は大学生ですが、周りの仲間の行動・思考パターンを聞くと「だれに投票をすればいいのか、をまずスマホに聞く」ところから始まる。自分で考えるのでなく、答えは既にスマホやパソコンの中にあって、それを求めるという思考方式になっている。
多くの人は「自分は、自分の考えを持っている」と思っている。でも、本当は「自分の考え」などは元々あるはずはなくて、さまざまな情報を集め、他者と対話をしながら、それまでの人生の経験で形成されたその人の価値観に照らして自分の考えを形成していくものと、私は考えています。しかし、生まれた時からネットに親しんでいる世代は、「自分の考え」が所与のものとして自分の中にあって、対話や経験をすっ飛ばして「答えはネットの中にある」と考える。「日本は強くなければ」と思っている人は、そういうコンテンツをふだんから、ネットで見る。分野は政治に限りません。いろんな考え方をAIが分析をしてくれて、こういうパターンを持っている人だ、と。「外国人が嫌い」とか「新しいものに飢えている」とか、「既存のものを壊したい」とか。
すると「タカイチサナエ」というコンテンツが引っかかる。そういうコンテンツに引っかかるように、高市さんのイメージが作り上げられた。「初の女性首相」とか、あるいは逆に、「悪い奴」を作りあげてる。反対側に「公明党と組んで、労働組合や創価学会の組織票を狙う古い勢力がいる」とふうに。「高市さんをいじめて中国にいい顔をしようとしている」とか。
「タカイチサナエ」という快楽をもたらす記号だった?
全て「二分法」です。演説もこれに合わせて作る。実際の高市早苗という政治家がどういう政治家なのかは関係ありません。国民は高市早苗という政治家をリーダーとして選んだのではなく、「タカイチサナエ」という快楽をもたらす記号を消費したのだと思います。高市首相は自らを「消費される記号」としての役割を自覚しているからこそ、徹底して国会での論戦から逃げようとしているのでしょう。
これは「マーケティング」の手法です。アメリカでもヨーロッパでも起きています。 私が1年半前に政治改革特別委員会の調査団として、ヨーロッパを訪問した時にはすでに、インターネットとともにポピュリズムが進展して、「民主主義よりも権威主義の方が合理的」という時代がくるんじゃないか。そういう恐れをイギリスや英国の政治関係者は持っていました。
選んでいるのは、果たしてその人の意思なのか
今までは自立した個人が、自分の価値観に基づいて判断するという前提に立って民主政治が成り立っていた。メディアもこれを前提に、判断の材料になるような情報を提供してきた。でも、そうじゃなくなった。自分の志向に沿ったコンテンツが、次から次へと、ネット上で、提供されてくる。それに基づいて、だれに投票したらいい、ということも、示される。選んでいるのは、果たしてその人の意思なのか。インターネットの情報に基づいて作られた「個人の意思」を、集めることが、果たして社会にとって何の意味があるのか。
そう考えた時に、「民主主義」そのものを疑わなくてはならないのではないか。それで「国民の意思」が決まるんだったら、何のために選挙をやるのか。別に「くじ引き」であってもいいはずなんです。そう、思い当たった。
私はこれまで、「党より人物」という言葉を掲げて、「一人の人間を見てほしい」と言ってきました。ネット上の「記号化された情報」ではなくて、「なんかやってくれそうだ」とか、「この人は、国のことを考えている」という直感とか、そういうものが大事だと思うからです。
「一軒一軒とのコミュニケーション」がこれまでの選挙の基本
茨城一区は42万人の有権者がいて、私に会ったり、見たりして知っている人は20万人くらいいると思うけれど、半分は知らないわけです。うちの陣営は、それぞれの地域の人たちに声を掛けて回って、対面のコミュニケーションを積み重ねてきた。ちゃんと、選挙やったと思います。
ところが、選挙が終わった後で地域を回ってみても、当選した自民党候補を応援した人が、全く見えてこない。これまでの選挙と違う。これまで「ドブ板選挙」と言われてきた、有権者との直接のコミュニケーションだけでは勝てないことを初めて実感したのです。
自民党がターゲットした「一人暮らしの単身層」、その人が投票に行くことは間違っていない。選挙、政治に参加することは素晴らしいことだと思う。しかし、そこには候補者と有権者のコミュニケーションが見られない。「人物」を見るという選挙ではなく「記号化された情報」を選択するだけになっている。そう感じた。
そうなると、記号化された情報を提供する「システム」に主権があることになってしまうのではないか。「個人に主権がある」っていう近代の民主政治の根本が、これでは成り立たないんじゃないか。これは、議会制民主主義なのか。それが今回の選挙でした。