高市早苗首相は2026年8月15日の全国戦没者追悼式の式辞で、25年に石破茂首相(当時)が13年ぶりに盛り込んだ「反省」という言葉を引き継がなかった。高市氏は野党議員だった約30年前、国会で「反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない」と発言。著書でも、政府や国会が過去の戦争について「反省」や「謝罪」を表明することを強く批判していた。河野洋平外相「私は議員と全く見解を異にいたします」高市氏は1995年3月16日の衆院外務委員会で、当時の栗山尚一駐米大使が記者会見で「第二次世界大戦に至った歴史を見据え、その反省の上に立って戦後の日本があることを忘れてはならない」と発言したことを問題視し、河野洋平外相(当時)を追及。その中で、自らの立場について「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない」と明言した。河野氏は、これに「私は議員と全く見解を異にいたします」と反発。高市氏が「どのように違うんでしょうか」と問い返すと、「過去の戦争について全く反省もしない、謝罪をする意味がないという議員の御発言には私は見解を異にする」と説明した。戦後50年決議まかり通れば「国民の生命・財産を守る権利すら放棄」この国会質問から約5か月後の95年8月、高市氏は「高市早苗のぶっとび永田町日記」(サンドケー出版局)を出版した。当時の高市氏は新進党の結党メンバーで、翌96年末に自民党へ入党している。著書の最終章に収録された「戦争責任論についての私見」では、戦後50年にあたって95年6月に衆院で可決された、いわゆる「戦後50年決議」を取り上げた。決議は「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」という内容で、「深い反省の念」がキーワードのひとつだ。高市氏は著書で、この決議を「侵略戦争謝罪決議」と表現。賛成できなかったのは「当然」だとして、その理由を「この馬鹿げた決議がまかり通るならば、日本という国家は、主権も名誉も放棄し、国民の生命・財産を守る権利すら放棄することになる」と主張した。村山富市首相(当時)が所信表明で「先の大戦への反省」「過去の侵略行為や植民地支配」に触れ、アジア歴訪で「勝手に日本を代表して」謝罪したことを高市氏は批判。選挙区に戻った際、遺族から、「出征して死んでいった夫は、侵略戦争に行ったことになるんでしょうか」と問われ、「胸のつぶれるような思いを味わった」と振り返っている。決議は「民主主義への冒瀆であり、国会の越権行為」ともさらに高市氏は、開戦に至った経緯や「侵略行為」の有無について、「生き証人以外が断言できる性質のものではない」との認識を示している。その上で、かつての政権による決定を「正義」だと信じて戦った人々や、銃後を守った家族、戦争を支えた納税者を挙げ、「それらすべてを断罪する権利など、50年も後の選挙で選ばれた我々政治家にあるはずはないのだ」とした。国会が歴史認識を「日本国民全体の意思」として定義することにも異議を唱えた。当時の世論調査で謝罪の是非が拮抗する中で、決議を可決することは「国会での多数決でわずかに多い意見を日本国民全体の意思として国際社会に示すこと」で、それは「民主主義への冒瀆であり、国会の越権行為」だと主張した。もっとも、首相就任後の高市氏は、「反省」を否定しているわけではない。25年11月7日の衆院予算委員会で、村山談話など歴代政権の考え方を「踏襲する」としたうえで、「政府としては、悲惨な戦争の教訓を風化させず、世界の平和と繁栄に貢献していくという決意には変わりはございません。また、我が国の戦争の歴史というのは、こうした戦争への反省を行動で示してきていると考えております」と答弁している。政府としては「反省」を行動で示してきたと説明した高市氏だが、自らの言葉で述べる戦没者追悼式の式辞には「反省」を盛り込まなかった。約30年前の国会質問や著書で展開した持論を踏まえれば、政府見解の踏襲とは別に、高市氏自身の歴史認識が式辞の言葉選びに反映された可能性もある。(J-CASTニュース編集委員兼副編集長工藤博司)
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