立憲民主党が、党本部を置く東京・永田町の「三宅坂ビル」の賃借スペースを大幅に縮小する。田名部匡代幹事長が2026年9月30日の記者会見で明らかにした。現在使用している5~10階の6フロアのうち、9階だけを残し、それ以外は27年2月末までに退去する。財政難を背景にした経費削減の一環で、警備契約も年内で解約する。ビルそのものからの退去は回避するが、民主党時代から記者会見や両院議員総会の会場になってきた5階ホールも手放すことになる。政権与党としての発信から野党の分裂、再編まで、政治の節目を伝えてきた場所だ。「これが最善の方法」 9階と国会内、議員会館に分散へ田名部氏によると、党本部は9階の1フロアを残し、職員は、そのフロアや国会内、議員会館にある立憲の部屋で仕事をすることになる。全面退去ではなく1フロアを残す理由については、支出を抑えながら職員の雇用を守り、選挙を戦う環境を確保するために検討したと説明。その上で、「金額的なことを含めて、これが最善の方法だということを執行部で確認をした上で、ワンフロアを残すという決断に至った」とした。退去に向けては10月末に手続きを行い、9階以外は27年2月末までに退去する。田名部氏は、27年1月に召集される次の通常国会までには職員が働ける環境を整える必要があるとして、それに先立って引っ越し作業を進める考えを示した。賃料以外の経費も見直す。田名部氏は、長年にわたって警備に支えられてきたことに触れながら、「その警備についても年内で解約」と説明。電話なども含め、削減できる経費は削減する方針だ。衆院議員の離党で収入減、職員の希望退職も財政悪化の背景にあるのが、中道改革連合の結党に伴う衆院議員の離党だ。立憲の衆院議席がなくなったため、27年以降の政党助成金は現在の立憲に残った参院議員の人数に応じたものになる。そのため、「これまでと同じような支出はもう続けられないということなので、思い切った改革が必要になった」(田名部氏)という。議員や都道府県連への交付金も、25年に交付した額からそれぞれ4割削減する。職員には希望退職制度を説明し、10月に入ってすぐに1か月間、希望者を募る。強制ではなく、本人の自由意思によるものだと説明した。田名部氏は、厳しい時も一緒に活動してきた職員について、「ここはなんとか守っていきたいという思いを持ちながらこの改革を進めさせていただいた」と話した。菅直人氏の代表就任会見、民進党分裂につながる総会も三宅坂ビルは1965年完成の地上10階、地下2階建て。民主党が97年に党本部を移し、政権与党だった2009~12年も使い続けた。その後も民進党、旧国民民主党と、民主党の流れをくむ政党の拠点になってきた。特に5階ホールは、両院議員総会や記者会見の会場として、メディアを通じて国民の目に触れる機会も多かった。10年6月には、民主党代表に選ばれた菅直人氏が記者会見し、その4日後に首相に就任。与党時代の12年11月には、野田佳彦首相(当時)が、政権を失うことになる衆院選のマニフェストを発表した。野党再編の転機にもなった。17年9月、民進党の前原誠司代表(当時)が、衆院選に向けて希望の党から候補者を擁立する方針を示した両院議員総会も、この5階ホールで開かれた。党の分裂につながる場面だった。22年夏の参院選では、立憲の開票センターとして使われた。最近では、中道改革連合の代表選で候補者が演説する舞台にもなった。党名や顔ぶれが変わっても、議員が集い、党の進路を示す場所として使われてきた。22年に所在地の「ねじれ」解消、今度は1フロアに立憲と三宅坂ビルの関係も、野党再編に伴って変化してきた。17年に民進党から分裂して発足した旧立憲は、平河町の「ふじビル」に党本部を構えた。20年に旧国民との合流で新立憲が発足すると、三宅坂ビルに「別館」として再入居した。大半の職員が三宅坂ビルで勤務する一方、名目上の党本部はふじビルのまま。郵便物を運び直すなど実務上の支障が生じていたため、22年10月に所在地を三宅坂ビルへ移すことを決めた。党本部の名目と実態の「ねじれ」を解消したが、今回は、その拠点を大幅に縮小する。三宅坂ビルには、中道改革連合も一部の部局を置く。中道を離党した立憲系衆院議員らが9月17日に結成した「民主改革の会」も、「主たる事務所の所在地」として同ビルの住所を総務省に届け出ている。田名部氏は会見で、民主改革の会との関係について、今後の連携のあり方を丁寧に協議する必要があると説明した。民主党の流れをくむ政治勢力が同じ住所に拠点を置く中、立憲はその歩みを伝えてきた5階ホールから離れることになる。(J-CASTニュース編集委員兼副編集長工藤博司)
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