「日常は音楽と共に」 オペラ改革者・グルックの「精霊の踊り」は何が新しかったのか

   選挙のシーズンになると、「改革」という言葉を頻繁に候補者などから耳にするようになりますが、クラシック音楽も、長い歴史があるだけに、改革の試みはいくつもありました。

   今日は、その中でも「オペラの改革者」といわれる、18世紀のドイツに生まれ、オーストリアやフランスで活躍した作曲家、クリストフ・ヴィリバルト・グルックを取り上げましょう。曲は、大変かわいらしい、「精霊の踊り」という曲です。

   「精霊の踊り」は、彼の代表作、オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の中の1曲、間奏曲として作曲されたものですが、現在では単独で器楽曲としてよく演奏されます。

オペラの「改革者」グルックの肖像
オペラの「改革者」グルックの肖像

マリー・アントワネットの先生を務める

   1714年、現在はドイツ、その当時は神聖ローマ帝国内だったバイエルンに生まれたグルックは、当時は同じ帝国内のプラハに学び、音楽家を志してからは、南はイタリアから北は英国まで広く、欧州を旅します。旅のあと、ウィーンに腰を落ち着けたグルックは、マリア・テレジアが実質統治する宮廷の楽長の地位につきます。ローマでは、教皇ベネディクト14世の御前で自作のオペラを上演して称号を賜わり、この時期からグルックの活躍は目覚ましいものとなります。彼は、宮廷の子女にも音楽を教えたので、マリア・テレジアの娘であるマリア・アントーニア、フランスに輿入れしてマリー・アントワネットとなった彼女の先生でもあります。アントワネットが優秀な音楽家だったのは、グルックの教育の賜物、と言われています。

   グルックが、「オペラを改革」したという事実には、たくさんのことが含まれているため、すべてを書ききることは難しいのですが、そのころ、オペラの発祥の国であり、当時も最先端だったイタリアのオペラは、歌手の名人芸を披露することを第一に考えた作品が作り続けられていました。その分、ドラマや音楽の流れが不自然だったのです。それをグルックは、筋書きや音楽がより自然に流れるようにし、芝居の流れのためには、個々の歌手の超絶技巧の披露を制限さえするという方向性を打ち立てました。オペラが、単なる歌手のテクニック披露の場ではなく、一つの音楽演劇として、意義のあるものにしたのが彼の「オペラ改革」の大きな部分です。もちろん、これは拒絶反応も生み出し、マリー・アントワネットに従って移ったフランスでは、守旧的な作品を作り続ける作曲家との対立を、周囲にあおられています。

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