「日常は音楽と共に」 宗教改革者の詩に音楽の先駆者が作曲 ジョスカン・デ・プレ「ミゼレーレ」

   今日は大変古い時代の音楽をとりあげます。「ルネッサンス」と呼ばれる時代です。

   ルネッサンスが始まったのは14世紀ですが、本格的に花開いたのは15~16世紀のことでした。文芸復興、とも訳されるルネッサンスは、神学が絶対的な価値を持っていたこの時代のイタリアで、イスラム圏との交易などから次第に「キリスト教以前」のギリシャ・ローマの文化がつたわり、それを復活させようという動きのことです。絵画、建築、哲学、科学、そして音楽、と幅広い分野でその動きはありましたが、ドイツのグーテンベルクの発明した活版印刷技術などが、これらの動きを加速したといわれています。音楽も、録音という手段がない以上、それを伝えるのには「楽譜」が必要だからです。

ジョスカン・デ・プレの肖像
ジョスカン・デ・プレの肖像

ルネサンス期最高の音楽家の一人と考えられる理由

   ルネッサンスはイタリアが発祥の地ですが、この時代の音楽においては、主役は北方、フランドル地方の人たちでした。現在のベルギー、オランダ、北フランスの地域は毛織物産業などが発達し繁栄していたため、音楽も盛んだったからで、それを担った音楽家たちが、イタリアに招聘されたのです。

   今日の主役はジョスカン・デ・プレという人です。古い時代のことゆえ、彼の生まれははっきりとはわかっていませんが、1440~50年ごろ、現在のフランス・ベルギー国境のあたりで生まれたといわれています。「フランドル楽派」と呼ばれる、その地域で活躍していた人たちの音楽のスタイル・・・楽器が未発達の時代のことですから、主に、教会のための合唱音楽です・・・を受け継ぎましたが、ジョスカンは、それを一言でいえば「改革」したのです。

   フランドル地方の出身ではありましたが、ジョスカンは、ルネッサンスの文化が花開いていた現在のイタリア(当時は都市領邦国家の集合体で『イタリア』という概念はありませんでした)に赴き、ミラノ、教皇庁のあるローマ、フィレンツェ、モデナなどで活躍しました。

   今日取り上げる曲は、ジョスカン・デ・プレが1503年ごろ作曲した「憐れみたまえ」というモテットです。モテット、というのは、多声部(ポリフォニー)を用いた宗教曲、つまり現代的に言えば合唱曲なのですが、いわゆるキリスト教の定型であるラテン語の「典礼文」を使っていないものを指します。

   ルネッサンスのポリフォニーが現代の合唱曲と違うのは、この時代は、まだ我々が現在使っている「調」という感覚がなかったために、和音の考え方が全く違った・・言い換えれば「ハモる」音楽ではなかった、ということです。いわば、独立した声部が重ねられている、という多声部音楽でした。

   そして、もう一つ大きく違う点は、これも現代の視点からすると意外なのですが、「言葉に重きを置いていなかった」ということです。歌の曲なのだから歌詞はあるのですが、それまでのルネサンスの音楽は、言葉が聞こえないぐらい音を重ねる、ということが通常だったのです。ところが、「モテット」というのは、フランス語の「ことば」を指す「モ」という言葉が語源です。「モテット」が持つ言葉に、意味を見出して、いわば「はっきり歌詞が聞こえる」ようにしたのが、ジョスカン・デ・プレの改革で、このことをもって、彼はルネサンス期最高の音楽家の一人、と考えられるようになったのです。

「危険な賭け」に臆することなく

   そして、この「憐みたまえ」という曲は、歌詞が問題だったのです。これは当時の彼の雇い主であるフェラーラ公爵の依頼によって作られ、教会の聖歌隊には公爵自身も参加する予定でした。しかし、この歌詞の作り手は、公爵の友人で、聖ドミニコ会修道士のジロラモ・サヴォナローラだったのです。フィレンツェに長年君臨して音楽を含む芸術を庇護したメディチ家・・・フェラーラ出身のサヴォナローラも「イル・マニフィコ」と呼ばれたロレンツォ・ディ・メディチに招聘されてフィレンツェの修道院にやってきたのです・・・は、フランス王シャルル8世とのイタリア戦争の結果、フィレンツェの支配権を失います。そのメディチ亡き後のフィレンツェに修道士でありながら君臨し、メディチ家を奢侈の罪で舌鋒鋭く批判したのです。「虚栄のかがり火」という催しでは、現代のわれわれから見れば大変貴重な文献や美術品を「贅沢の象徴である」という理由でたくさん燃やさせました。

   長年の支配者メディチ家を批判するサヴォナローラは民衆から支持されますが、既存の勢力への批判を繰り返した彼は、ローマの教皇庁にも非難の矛先を向け、最終的には、教皇アレクサンデル6世の逆鱗に触れ、拷問の上、処刑されてしまいます。しかし彼は、のちに教皇庁との争いに負けず「宗教改革」を成し遂げた、ドイツのマルチン・ルターにも影響を与えた「先駆的改革者」と今では考えられています。

   そのような、いってみれば「危険人物」の詩だったのです。サヴォナローラが獄中で処刑される前に、旧約聖書詩編「神よ、我を憐れみたまえ」を下敷きとして、自作の「不幸なる我が身」という詩を編んだのです。拷問のせいで無実の罪を自白してしまったと、神に許しを請う内容で、人々は、サヴォナローラの懺悔の念と、それでも権力に負けない気持ちに、心を動かされたのです。

   ジョスカンにとっては、アレクサンデル6世も、元の雇い主だったために、これは危険な賭けでした。しかし、彼は臆することなく、「一つの歌詞に一つの音を充てる」・・・現代の音楽では当たり前ですが、こうすれば歌詞は大変聞き取りやすくなります・・・彼が編み出した新しいスタイルを使って、さらにそれを各パートが繰り返すことによって、はっきりと「憐みたまえ」というフレーズが聞こえる「モテット」を作り上げたのです。

   そして、繰り返しによって強調された歌詞は、盛り上がると、全員での「ハモり」でまた繰り返されます。現代では当たり前の「和音を作るという行為」を、ここでジョスカンは取り入れたのです。それは、和音という概念のなかったルネッサンス音楽にとって革命的なことであり、次の「調による和音」を使ってクラシック音楽の基礎を作ったバロック時代の扉を開けるものとさえ言えなくもありません。

   いわば、この「憐みたまえ」はサヴォナローラという宗教改革の先駆者の詩に、ジョスカン・デ・プレというクラシック音楽の先駆者が音楽を付けた、真の「ルネッサンス音楽」と言えます。

   我々の耳にも、そのドラマチックさは、500年の時を超えて、伝わってきます。宗教改革を成し遂げたルターも、自ら讃美歌を作るなど音楽に才能を発揮した人でしたが、ジョスカン・デ・プレに対して「他の作曲家は音符の指示に従うが、ジョスカンは、音符を意のままに操ることができる。」と最上級の賛辞を送っています。

本田聖嗣


本田聖嗣プロフィール

私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミ エ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを 務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。


   出典元:週刊「日常は音楽と共に」https://www.j-cast.com/trend/column/nichijou/

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