2024年 4月 23日 (火)

オーマイニュースはなぜ挫折したか 「敗軍の将と兵」が語った1万字(中)

   オーマイニュースには多いときで20人近くのスタッフがいた。市民記者が投稿した記事をチェックする編集部員のほか、どのように掲載すべきかを判断するデスクや市民記者との窓口になるサポート担当者がいた。なによりも実際に記事を書いていたのは、約5000人の市民記者だった。彼らはどんなことを考えながら、オーマイニュースとかかわっていのだろうか。

>>オーマイニュースはなぜ挫折したか(上)
>>オーマイニュースはなぜ挫折したか(下)

ネットメディアなのに「広告営業」の担当者がいなかった

村上和巳・元編集部デスク
村上和巳・元編集部デスク

司会(藤倉善郎:元編集部記者) 編集部のスタッフから見てオーマイニュースの問題はどこにあったのか?

村上和巳(元編集部デスク) 2007年秋から、オーマイライフに変わる直前の08年6月まで、週1回のデスクをやった。ページビューをあげるのが目標だったが、収益構造は数ヶ月たっても見えてこなかった。デスクをやっている立場から広告がつきそうな企画を提案したこともあるが、「専任の広告営業担当はいない」と言われた。「ネットメディアは広告を取るのが前提のはずなのに、広告営業担当がいないのはどうして?」と思った。

吉川忠行(元編集部員) 僕が不思議だと思ったのは、元木さんや平野さんが日本側のトップにいて、我々と会議をして何か決めても、結局オ・ヨンホのOKがないと決まらなかったこと。しかも最初はOKしたのに、来日すると話が振り出しに戻ることがよくあった。「あがりのない人生ゲーム」のような状態がずっと続いていた。

元木昌彦(2代目編集長) オさんはジャーナリストとしては優れているが、経営者としては十分ではなかった。営業担当者のことも2007年2月から言っていたが、実際に来たのは翌年の2月で、1年かかった。そのときはほとんど手遅れだった。何も手を打てなかったのはじくじたる思いがあるが、韓国にいて月に1回だけくる代表と意思疎通がうまくできなかったのも、一つの大きな要因だったと思う。

平野日出木(3代目編集長) ソフトバンクとオ・ヨンホの間のコミュニケーションのズレも、最初から感じていた。ソフトバンクにすごい技術者がいると2006年5月ぐらいに聞いたが、フタをあけてみるとそんな技術者はいなかった。創刊日が決まっているなかで、急遽外部のベンダーに頼んだから、非常に高いものをふっかけられてしまった。

市民記者はオーマイニュースをどう見ていたか?

司会 市民記者として活動していた2人にゲストとして来てもらった。どんな記事を書いてきたのか。市民記者としてオーマイニュースの印象はどうだったのか。

勢芳明(元市民記者) 私は鉄道記事を専門として活動した。もともとカメラがメインで、文章を書くのは初めての経験。2008年4月に蒸気機関車が山梨で走るということで、どこかに書けないかと検索したところオーマイニュースがあって、市民記者に登録して記事を書いた。

市民記者として育児の記事などを書いた黒須みつえさん
市民記者として育児の記事などを書いた黒須みつえさん

   取材しているうちに、鉄道会社との連絡も密になって、自宅のほうにも取材依頼が来るようになった。書いた記事の数は、オーマイニュースで53件、オーマイライフでも53件。鉄道の記事ばかり書いていた。この4月にサイトが閉鎖になる状況でも、鉄道会社から取材依頼がきている。これからの活動先が決まっていないので、この先どうしようかと思っている。

黒須みつえ(元市民記者) 私の場合は主に、家庭的なことや育児の話を書いた。オーマイニュースに記事を書き始めたのは、ちょうど元木編集長に代わるかどうかの時期。それまでのワイワイしていた状況はあまり把握していないので、比較的クリーンな印象から入ったが、参加してみるといろんな話が聞こえてきた。

   記事について編集部の人と直接やりとりすることはほとんどなくて、投稿フォームで投稿すると、いつのまにか体裁がきれいに整えられて掲載されていることが多かった。それまでニュース記事を書いたことがなかったので、書き方をていねいに教えてくれた人も一部にはいる。こういうものが全体的に広がったら、迷ったり考えたりしないでどんどん記事を書いていけたのではないかな、と思った。

司会 市民記者のなかには「編集部に記事を直されるのが嫌だ」という声もあったが、そういう思いをしたか?

 多少はあった。取材で聞いた話と記事の書き方がちょっと違う感じで掲載されたこともある。そういうときは掲載後に修正をお願いした。

黒須 私は嫌な直され方はなかった。自分自身はそういう体験はなかった。

吉川 僕は二人とも編集を担当したことがあるが、「短くしてください」ということはあっても、リライトすることはなかった。それはやってはいけないと思っていた。プロのライターならいいが、市民記者の場合は、書いた人の味が残っているほうがいい。校正・校閲を中心にして、事実が違うとか誤字があるとか以外は、なるべくやらないようにした。そういうことをやるから、編集に時間がかかるのだと思う。

市民記者対応に時間がかかったワケ

黒須 初めて虎ノ門の編集部に行ったとき、ドアを開けたらワーッと机があって、ワーッと人がいて、すごくびっくりした。その割には何かトラブルがあったときの対応は、全然返ってこないという印象があった。こんなにたくさん人が働いているのに、みんな何をしているのかと思った。

吉川忠行・元編集部員
吉川忠行・元編集部員

朴哲鉉(パク・チョルヒョン、韓国オーマイニュースから出向) 運営システムに問題があったと思う。韓国のオーマイニュースでは、クレームとかの対応は1人か2人でやっていた。日本の編集部では、へんなコメントや記事がきたときに「どうすればいいか」と聞かれたが、僕はいつも「規約どおりにやればいい」と言っていた。韓国では規約がしっかりしていたので、一人のコメントで時間をつぶすことはなかった。

小宮山圭祐(元編集部員) 市民記者担当をしていたので、クレームがあったときにメールの返事をしていた。朴さんが言うようにルールみたいなものはまったくなくて、その場その場で一つ一つ対応していた。一日がかりで、時間をかけてやっていた。市民記者の対応について、編集部員の人と市民記者が直接やりとりしてもらえれば話が早かったが、いったん僕が中継してやりとりしていたから時間がかかった。

司会 なぜ直接、編集者と市民記者がやりとりしなかったのか?

小宮山 僕ともう一人が市民記者対応ということになっていたので……。ほかの編集部員は編集・校閲がメインで、仕事の振り分けをしていた。

吉川 オーマイニュースは部員間の意思疎通がちゃんととれていない会社だった。市民記者の問い合わせ対応だけでなく、サイトリニューアルのときもそうだった。コミュニケーションしているようで、肝心なことはコミュニケーションしていないことが随所にあった。それが、オーマイニュースがちゃんと一枚岩になれなかった理由の一つだと思う。

司会 勢さんや黒須さんの記事にコメントがきたことは?

 コメントが来たことはあるが、励みになるコメントが多くて、やりがいを感じた。逆に中傷を書かれると正直ショックで、自分なりに落ち込むこともあった。

黒須 結構くだらないものを書いていたこともあるので、「馬鹿じゃないの」というコメントもあったが、自覚が十分あったので「そうだよねえ」と思っていた。対応に困るようなコメントはきていない。

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