2024年 4月 24日 (水)

次世代へ託す「守・破・離」の精神 上皇さまがみせた「承継」のお手本(大関暁夫)

   世間的には史上最長の10連休というゴールデンウィークを終え、元号は平成から「令和」に改まりました。

   元号変更は、上皇から新天皇に国民の象徴の地位が譲り渡されたという意味で、国家レベルでの大きな継承プロジェクトです。

  • 新しい天皇陛下は即位後朝見の儀で上皇さまの「強い御心」を受け継ぐ決意と述べた(2019年5月1日、皇居・松の間で)
    新しい天皇陛下は即位後朝見の儀で上皇さまの「強い御心」を受け継ぐ決意と述べた(2019年5月1日、皇居・松の間で)
  • 新しい天皇陛下は即位後朝見の儀で上皇さまの「強い御心」を受け継ぐ決意と述べた(2019年5月1日、皇居・松の間で)

上皇さまの見事な「後継」ぶり

   上皇陛下は、「神」から「人間」に変わられた昭和天皇の後を継いで、約30年にわたって国民の象徴として、その役割の遂行に日々腐心されてきました。父である昭和天皇は、戦前は「神」であり、終戦時には国内外から、その戦争責任を云々されたこともありましたが、戦後その存在は一「人間」に改められ、国民の象徴として職務に携わってこられました。

   上皇は終戦時、まだ小学校高学年生。やっと物心が付くかつかないかの年齢で、大きな変化を強いられた父の立場を目の当たりにし、また自らも「神の子」から「人の子」へと立場が変わる中で、さまざまに考えるところがあったであろうことは想像に難くないところです。

   人生半ばにして「神」から「象徴」への移行を余儀なくされ、新たな道を歩まれた昭和天皇。そして、その後継者を宿命づけられた上皇は、後継者として見事な後継ぶりを世間に見せてくれたのではないかと思います。

   「象徴」として父から学んだその姿勢をさらに一歩前に進め、「常に国民に寄り添う」という気持ちを自ら行動で示してきた、その姿勢は多くの国民が感謝と畏敬の念をもって見守ってきたのではないでしょうか。

地位でも事業でも、「承継プロジェクト」は難しい

   地位にしろ、事業にしろ、承継プロジェクトは本当に難しいものです。

   先代が立派であればあるほど、あるいは何かを新たにはじめた人物であればあるほど、後継者はその立ち位置の置き方が難しくなります。先代と同じように振る舞えば振る舞うほど、周囲からは次第にその価値を低く見られがちになり、そうかと言って自らのオリジナリティを出そうとすればするほど、おかしな方向に迷い込んでしまったりするものです。

   室町時代の能楽師、世阿弥は、自分の後を継ぐ弟子たちに、芸の継承の心得を「守・破・離」の言葉で教えたと言われています。「守」とは、第一段階。先代のやり方を徹底して真似て、まずはそれに従うということ。その真似が板について、すっかりマスターできるようになったら、第二段階である「破」に移行します。「破」は、先代のやり方を破るという意味で、先代にはないもの、すなわち自分のオリジナル要素を入れて応用を効かせてみるというステップです。

   そして先代のスタイルに自身のオリジナルを加えてそれが安定したなら、いよいよ第三段階「離」に移行します。「離」とは先代を離れて、今度は自身が後継を育てられる段階、すなわちいつでも後継に道を譲れる段階に至る、というわけなのです。

   この「守・破・離」の精神。昭和天皇のあとを継いだ上皇の承継は、まさにその流れをなぞられたと思います。昭和天皇崩御に伴う上皇の天皇陛下としてのスタートは、「守」そのものでした。「象徴」としての出過ぎない行動を守りながら、存在感をしっかりと国民に印象づけていく、その一挙手一投足には戦後の昭和天皇の姿がそこここでだぶる部分が多いと感じられました。

   そして1991年、雲仙普賢岳噴火災害の際に、ひとつの衝撃的なシーンが国民の目に飛び込んできました。大火砕流から1か月後、噴火もまだ鎮静化していない時期に、陛下たっての希望で被災地を訪れ、多くの被災者が避難所生活を送る体育館で膝をついて被災者と同じ目線で話をされている姿が、テレビを通じて映し出されたのでした。

行動で示した「常に国民と寄り添う」姿勢

   1995年にも同様の出来事がありました。阪神淡路大震災の発生後に被災地を慰問に訪れた際には、当初予定されていた御料車での被災地巡回を断り、随員と同じバスでの巡回を実行させました。

   そして避難所では、普賢岳災害の際と同じく自ら膝をついて被災者一人ひとりに語りかけ、あるいは相手の手を取り、あるいは背中をさすり、真の意味で「国民と目線を合わせた」象徴天皇の姿でした。まさしく「守」の延長線上に「破」を見た思いでした。

   2011年の東日本大震災をはじめ、他の災害の折にも、被災地で被災者と目線を同じくして励まされる陛下の姿は、常に国民の目にするところでありました。陛下が平成の時代に災害の被災地を訪問された回数は37回にものぼるそうです。

   昭和天皇が、天皇としてはじめて歩まれた「象徴」の道をしっかりと歩みつつも、自らの意思で昭和天皇とは異なるやり方でさらに一歩進めた「象徴」の姿を具現化したと言えるでしょう。

   すなわち、事あるたびに口にされてきた「常に国民と寄り添う」という姿勢を、行動で示されてきたわけです。

   そして「令和」になって、上皇は近代以降の、過去のどの天皇とも異なる、約200年ぶりという生前退位を決断されたわけです。世阿弥の言うところの「離」であったといいでしょう。同時に、新天皇に「常に国民と寄り添う」気持ちを伝えつつ、その座を譲ることで、新たな「守・破・離」を託したのだと、私の目にはそう映りました。

   このゴールデンウィークに、平成から「令和」への改元に際して、上皇がこれまで示してこられた継承における「守・破・離」の姿勢を、改めて認識させられるとともに、経営者が後継者に地位を譲る際、また後継者が先代から地位を譲り受ける際にも、大いに参考になる部分が多いと感じ入った次第です。(大関暁夫)

大関暁夫(おおぜき・あけお)
スタジオ02代表。銀行支店長、上場ベンチャー企業役員などを歴任。企業コンサルティングと事業オーナー(複合ランドリービジネス、外食産業“青山カレー工房”“熊谷かれーぱん”)の二足の草鞋で多忙な日々を過ごす。近著に「できる人だけが知っている仕事のコツと法則51」(エレファントブックス)。連載執筆にあたり経営者から若手に至るまで、仕事の悩みを募集中。趣味は70年代洋楽と中央競馬。ブログ「熊谷の社長日記」はBLOGOSにも掲載中。
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