■『日常生活支援 サポートハウスの奇跡』(林真未著、東京シューレ出版)
畏友の推薦で出会った本である。
「聞きなれない出版社だな」と思いつつ発注して数週間。ようやく届けられた本の奥付を見ると、本年5月20日初版発行とある。発刊後直ちに推した所以を畏友に聞けば、本書の主人公のみならず著者も知人という。身近な友人の輪がこうした方々にもつながるのか、と感心したものである。
以上、本書をご紹介するにあたり、評者にはこうした間接的なご縁がある旨を先ず明示しておく。ご縁があるからと宣伝するつもりは毛頭ないが、無意識のバイアスまでは排除できまい、との趣旨である。
山本氏の活躍と苦悩
本書は、山本実千代氏の奮闘の記録である。
行政の縦割りや機能不足の故に苦しんでいる人々に支援の手を差し伸べる活動は、古くから存在する。明治21年、日本初の更生保護施設を創設した静岡の篤志家・金原明善氏の事績は好例だ。
だが、ここまで徹底して寄り添う支援はそうあるものではなかろう。
石川県金沢市でそうした活動の拠点として「日常生活支援サポートハウス」(通称サポハ)を運営する山本氏に出会い、その活動に感動した著者・林真未氏が、4年がかりで書き上げたのが本書である。
筆致を見れば著者もまた相当な熱量の持ち主と推測される。山本氏の熱量が著者に伝播したか、あるいは相互に共鳴したか。本書は両者の見事な連携の賜物とお見受けした。
それはサポハの支援の記録であるとともに、山本氏の半生記でもある。
壮絶な人生を歩んできた山本氏は、見ず知らずの他人への支援を惜しまない。苦労してきたからこそ辛(つら)い境遇の人々に寄り添えるのだとしても、支援の実態は生易しいものではない。むしろ、凄まじい、の一言である。
どう凄まじいか。リストカットを繰り返す少女に対し、これを止めさせるべく山本氏が自身の手首を切って見せた、というエピソードはその一例である。
そこにあるのは、生命のぶつかり合いである。他者への関わりの中で、徹底して正対する覚悟である。
結果的に、その少女の人生を立て直すには至らなかったことを、山本氏は悔やんでいるという。だが、祖父母、母親に虐待され、ひたすら孤独であった少女の心に、氏が一条の光を差しかけたことは間違いない。少女の手紙の一節「この人は、今までの大人とちがうと思いました」に、そのことが顕れている。
制度の狭間と公務員の矜持
家庭内暴力や児童虐待、シングルマザーの困窮など、福祉の最前線における課題は山積している。
その課題を解決するために、当事者は、どのような制度があるかを調べ、その制度を担当する役所を見つけ出し、そこで書類を提出するなどもろもろの手続を行う必要がある。
だが困窮する者に、そうした行政上のハードルをクリアして来なさい、と言って、それが出来るものであろうか。
また、せっかくたどり着いて支援を受けるに至っても、困窮に至る根本原因が除去されるとは限らない。困窮者はたいがい複合的な課題を抱えているからである。
生活保護はあの手続、精神疾患の治療はこの手続、DVから逃れるためにはこちらで、学習についてはあちらで...。「日常生活支援」という言葉には、こうした縦割りの行政を当事者の視点から包括的に支援する、という意味が込められている。
山本氏が体現しているものは、究極のヒューマニズムであるとともに、究極の「おせっかい」とも言える。だとすれば「おせっかい」は捨てたものではない。否、お互いさまで成り立つ人間社会にあって、「おせっかい」なき社会生活は、実に無味乾燥なものになろう。そして現代は否応なくそうした時代になりつつある。
そう思うと、公務員も、もっと「おせっかい」焼きになって良い。所掌の枠内で機械的に仕事をこなすことは美徳かも知れぬが、公僕とて一人の人間である。世のため人のために働いているからこそ、その仕事に人間的な彩を与え、人々の生活の流れをそっと後押しする。公務員各々がこうした姿勢を保てば、縦割り行政の弊は限りなく小さくできる。
他所の仕事は知らぬ。公務員のそんな消極的姿勢の故に生まれる悲劇を、我々は今後いくつ見なければならないのか。霞が関に至っては尚更だ。
行政の不作為の違法性を認めた判決は積み重なっている。自戒を込めて言う。行政官は心するべきである。
究極の「おせっかい」による人助けに奔走する山本氏と、「おせっかい」にも本書の執筆を申し出た林氏。二人の生き様が公務員たるものの心構えに与える影響は、決して小さなものではないと評者は思う。
若き後輩たちに一読を勧める所以である。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)
(8月2日追記)文中、山本実千代様のお名前の表記が間違っておりました。訂正いたしますとともに、評者より深くお詫び申し上げます。