「死んだら韓国に埋めてほしい」
大田研究に話を戻そう。かつて大田に住んでいた日本人にインタビューし、大田で取材をするうちにわかってきたのは、大田が日本そのものだったということだ。日本人の商店街があり、日本人学校があり、日本語だけで生活ができた。驚いたのは、戦前・戦中に大田にいた韓国人の中に、日本人に悪感情を抱く人が少ないことだ。
「野原を高いお金で日本が買ってくれたので、土地を持っていた人は大金持ちになったし、町として開けていったからです。日本に土地を奪われたりして、怒るソウル市内の人などと比べるとまったく違う世界でした」
大田で生まれ育った日本人も、当時の大田にいい思い出を持っていた。
取材した最高齢は当時92歳の女性。大田生まれの彼女は、大きな商売をしている家のお嬢様で、日本人学校に通い楽しく過ごしていたという。むしろ、戦中に日本の学校に通うために京都で過ごした日々のほうが辛かった。朝鮮半島生まれであることを、友だちから蔑(さげす)まれたからだ。また夫も朝鮮嫌いで、大田での思い出は封印したままだったという。
3代続いた醤油会社の3代目にも会った。祖父の代に大田で会社を設立。社員旅行や飲み会なども韓国人従業員と一緒で、現地の人とは良好な関係を築いていた。父親の大田への愛着は深く、敗戦から1か月以内に引き上げなければいけないのに、10月まで大田に留まった。そして遺言は「死んだら、骨の一部を韓国に埋めてほしい」だった。
鉄道官舎で育った兄弟にも会った。父親が鉄道の仕事をしていたのだが、Baeが取材に訪れると言うと、当時の記憶をもとに、官舎の精巧なミニチュアをつくってくれた。
Baeは、取材を重ねるうちに、頭の中が混乱することがあったという。
「これをアートとして制作するのはいいとしても、取材した内容を公表すると、植民地政策はよかったという風にとられかねないし、韓国人からは何のためにやっているのか、と批判されるのは目に見えていました。取材をやめようかと思ったことがありました」
知り合いの研究者に相談したところ、「大田で生まれたお年寄りの話を、興味をもって聞ける人はあなたの他にいない。これは大切な研究だし、意味のあることだ」と励まされた。確かに、この人たちは「歴史」という大きな枠組の中では小さな存在かもしれない。でも歴史の大切な一コマである。
そこからBaeは、「月虹(げっこう)」(Moon-bow)というモチーフを着想する。これは、太陽光線によって生まれる虹とは異なり、月の光によってつくられる虹のことである。
月の光は月に反射した太陽光線だから、光としては弱い。月虹ができていても見えにくい。しかし満月で強い月光があるときには見えることがある。ただし、逆サイドから雨が降る条件が偶然重なったときだけ。大田の日本人たちは、月虹のように見えづらい存在ではあるが、偶然出会えた人たちだったのだ。