2018年 7月 19日 (木)

【取材秘話】甲子園の土「最初は川上哲治氏」説は本当か

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取材秘話・フラッシュバック(6)


    かつて土づくりの達人がいた。甲子園球場の名物グラウンドキーパーだった藤本治一郎さん(享年70)だ。愛称を「ジイやん」といった。47年間も甲子園球場の整備を手がけた人だが、季節と天候に合わせ黒土と白砂の配合を微妙に変えたのもこの人である。「土は生きものや」が口癖だった。最近は鹿児島の黒土と中国・福建省の白砂の配合。春は砂を、夏は黒土を多く混ぜている。

    近年はその土が甲子園の土産物になった感がする。負けたチームの選手は涙の乾く間もなく、ベンチ前でシューズ袋に砂を詰め込む。全員が砂採り作業に没頭する光景は今やお馴染みの光景になった。

    最初に砂を持ち帰ったのは熊本工の川上哲治さん(元巨人監督)だったという説がある。37年(昭和12年)の第23回大会決勝で中京商に1対3で敗れたとき、ひと握りの砂を持ち帰り母校のグラウンドに撒いたというが、定かではない。確かなのは49年(昭和24年)の第31回大会の準々決勝で倉敷工に6対7で敗れた小倉北の福嶋一雄投手がズボンのポケットに入れて持ち帰っている。しかし、福嶋は記念品にする発想はなく、家にあったゴムの木の鉢に撒いたと言った。

    印象に残っているのは69年(昭和44年)の第51回大会の三沢・太田幸司投手だ。松山商の井上明投手と投げ合った決勝戦は延長18回の末0対0の引き分け。翌日の再試合は2対4で敗れた。太田投手は閉会式のあと係員に断ってマウンドへ行き、そっと砂を採った。2日とも公式記録員だった私はこの姿を見て思わず涙したのを覚えている。

    「悲しい砂」もある。58年(昭和33年)の第40回大会に沖縄から戦前戦後を通じて初めて出場した首里が1回戦で敗れ、記念に砂を持ち帰ろうしたが、沖縄が米国の統治下にあったため帰りの船上から砂を海に捨てられた。不憫に思った日航の客室乗務員が禁止されていない甲子園の小石を贈った後日談がある。

岡田 忠


岡田 忠(おかだ・ちゅう)プロフィール
スポーツジャーナリスト。1936年広島県生まれ。立命館大学卒。朝日新聞社東京本社編集委員を96年に退職して現職。高校・大学では野球部に所属し投手をつとめる。高校野球のテレビ解説経験も豊富。

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