2024年 4月 27日 (土)

魁皇「満身創痍の引退」今場所中も片道2時間半かけて治療

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   大関魁皇がきのう(2011年7月20日)引退を発表した。

「本日をもちまして現役を引退することになりました。最高の相撲人生でした。一切悔いはありません」

   晴れ晴れとした表情だったが、これで大関以上に日本人はいなくなる。やっぱりさびしい。

通算勝ち星の他にも5つの「1位」

   名古屋場所5日目にあげた1勝が通算1046勝。千代の富士がもっていた1045勝を破る記録だった。その後もひとつ伸ばして1047勝。これが23年をかけた相撲人生の到達点になった。友綱親方は「私の前に正座したときにもうわかった」という。もう十分だった。幕内在位107場所、幕内出場1444回、 幕内勝ち星879勝、大関在位65場所、大関以下での優勝5回、いずれも1位である。優勝5回で横綱になれなかったのも初めてか?

   魁皇は1988年の入門。 同期には若貴兄弟、曙がいた。「花の63年組」ともいわれた。しかし、友綱親方によれば「逃げ出したこともあった」という問題児だった。2人にとって忘れられない一戦が2000年1月の千秋楽の対武双山(源藤島親方)だ。あまりにも無様な負け方に、親方は「何年プロやってる。きのう今日の学生に負けて」と激しく叱責した。魁皇も「あのくやしさがあって大関になれた」という。この年の5月、貴乃花を破って悲願の初優勝をはたし大関になった。

東北被災地炊き出しでは「ちゃんこ盛りつけ担当」

   その後は一進一退、故障に悩まされる日々だった。今場所も名古屋から片道2時間半もかけて、奈良まで治療に通った。最後は治療する先生の方が名古屋まで来た。誠実な生き方は尊敬も集めた。引退するその朝まできちんと土俵に下りて稽古をしていた。4月に東北の被災地で行った炊き出しでは、大関が率先してちゃんこを盛りつけしていた。

   引退後は親方になり後進の指導に当たる。会見で「自分よりもっともっと強い、 かっこいい関取を育てたい。それが夢です」と話した。

   司会の小倉智昭「気の毒だったのは、(不祥事で)場所がなかったりして、記録の達成が遅れたんだよね。もっと早かったはず。場所をボイコットしようという動きがあったときも、魁皇がとめたっていうでしょう」

   レポーターの横野レイコ「『オレたちが相撲とらないでどうするんだ』という一言で決まったのでした。でも、魁皇最後の日も(入場客は)4400人という寂しい状況でした」

文   ヤンヤン| 似顔絵 池田マコト
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