2024年 4月 27日 (土)

山本美香さん死の直前メモ「伝え続けることで最悪を防ぎたい」大手メデイアは答えているか!?

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   「この瞬間にも、またひとつ大切な命が失われているかも知れない。さあ、みんなの出番です」。先月、シリアで命を落とした戦場ジャーナリ スト・山本美香さん(45)が残したメッセージだ。16年間、戦火の中でけなげに生きる子どもや女性たちに目を向け続けた山本さんのまなざしである。

   アフガンからボスニア、コソボ、中東、チェチェン、アルジェリア、ウガンダ、フィリピン、アチェと最も多くの戦場を歩いた日本人ジャーナリストだった。パートナーの佐藤和孝さんと残したビデオは700本にもなる。

戦場ジャーナリストの道決めたタリバン政権下の「女性たち」

   山梨・都留市の生まれ。新聞記者だった父の孝治さんを追って、ジャーナリストを志した。衛星放送の記者を経て29歳のとき、佐藤さんが撮ったドキュメンタリー「サラエボの冬」を見た。戦場にも日常生活があり、精一杯生きる人たちがいた。

   最初に入ったのが内戦下のアフガニスタンだった。当時のタリバン政権は娯楽も女性の教育も禁じる抑圧政策をとっていた。ここで山本さんは佐藤さんにはできない取材をする。女性たちの秘密の学校だった。現地の女性の格好をして、しかし見つかったら殺される。女性たちはカメラに顔をさらして話した。「私たちは動物のように家に閉じ込められ、教育を受ける権利もない」

   「彼女たちに迷いはなかった。これを世界に伝えてくださいという、清らかな目が私を捉えて離さなかった」(著書「戦争を取材する」)。これが山本さんのその後を決めた。

   山本さんは同じ人を継続して取材していた。その1人、バハドゥリ・バイザさんは2000年当時難民だった。医師を目指して勉強する姿が残っている。彼女は保健学の博士号をとり、いま政府機関で働いている。「クローズアップ現代」のスタッフが山本さんの死を伝えた。バハドゥリさんは「つらい」といった。「彼女の取材は、弱気になる心の支えになった。希望を失わなかったのは、私たちのことを伝えてくれ たからだ」

   転機が2003年のイラク戦争だった。バグダッドから米軍のミサイル攻撃を中継し た。滞在するホテル近くに着弾するミサイルに「近いんじゃない?」と怯える山本さん、「大丈夫」という佐藤さんの声。4月8日、ついに1発がホテルを直撃した。仲間のジャーナリストが死んだ。山本さんの叫び声、怒りと恐怖に震える姿があった。「死んだのは私だったかもしれない」。山本さんは取材を続けた。佐藤さんは「もの凄い怒りだった。もっとやらないとと思ったんじゃないか」という。父も娘の変化に気づいた。「性根がすわったというか、鷹の目になった。こいつ筋金入っとるなと」。神棚に手を合わせてもいた。

「相手と同じ目線で向かい、そこで見てきた者、立ち合った者の責任」

   7月4日(2012年)のNHK甲府の番組で、「伝えることで状況の悪化を抑えることができるかもしれない。だから伝え続ける」と話していた。8月、シリア入りの準備で残したメモがあった。「外国人ジャーナリストがいることで、最悪を防ぐことができる、抑止力」

   しかし、シリア政府軍は容赦なくジャーナリストを撃った。8月4日、アレッポではすでに4人が犠牲になっていた。山本さんは「いまの危なかったね。人を撃ってる。やみくもに撃ってる」とビデオの中で話し、これが最後の姿になる。彼女のカメラはゆりかごの赤ん坊やテラスの家族の姿を捉えていた。が、銃声とともに止まった。

   ジャーナリストの野中章弘さんは、「相手と同じ目線で向かい合う。世界に伝えてくれるという信頼感を生む。見てきた者、立ち合った者の責任。これはなかなかできな いんです」という。

   あらためて思う。彼女が命をかけて伝えた映像や思いをメディアは確かに伝えただろうか。大手メディアは危険地帯から記者を引き上げた後始末を体よく押し付けていたのではなかったか。彼女が本物だっただけに、いっそうやりきれない思いになる。

ヤンヤン

NHKクローズアップ現代(2012年9月20日放送「戦場の市民をみつめて~山本美香さんのメッセージ~」

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