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週刊新潮60周年!駆け出し記者も言われてた「出張では1等車に乗れ」
週刊新潮が先週から始めた「死刑囚の手記」で『永田町の黒幕』といわれた齋藤衛氏殺しについて、やっと警視庁が動き出し、死体遺棄役の事情聴取をあわてて始めたと報じている。
そしてもう一つの殺しは、暴力団系の街金からカネを借り、そのトラブルが元で1996年に突然失踪してしまった当時60歳の不動産業者だという。失踪したときも、不動産業者の妻が電話して警察が動きはしたが、1年後に資料を返してきてそのままになっているという。果たして死体を埋めたという男の証言通り、その場所から遺体は発掘されるのか。次号をお楽しみに。
ところで、週刊新潮が創刊60周年を迎えた。2月22日には『別冊週刊新潮60周年創刊号復活』を発売した。「60年史」を見ると、創刊は1956年2月6日、B5判、本文64ページ、グラビア16ページ、誌価30円で、表紙絵は谷内六郎だった。30万部程度の発行部数ではなかったか。だが、その年の11月12日号は早くも発行部数50万部を超えたと記している。
ここにも書いてあるように、「新聞社系でなくては出せないといわれた週刊誌の創刊に挑戦し、販売、広告、取材の課題を克服。ユニークな編集方針と、文芸出版社の伝統を生かした連載小説」を武器に週刊誌市場へと切り込んだのである。
当時は新聞社系の『週刊朝日』と『サンデー毎日』が100万部といわれ、週刊誌は情報力、取材力のある新聞社でなければ無理だといわれていた。出版社の出す週刊誌では編集部員はせいぜい20~30人程度、しかも取材経験もほとんどない。アンカーマンといわれる記事のまとめは作家崩れに頼むとしても、情報収集は、取材の方法はと難題が山積していた。
創刊時ではなかったが、少し後に週刊新潮編集部にいた年上の友人からこんな話を聞いたことがある。大阪や名古屋などに取材に行くときは一等車に乗れと先輩からいい渡されたそうだ。当時はまだ三等車があった時代である。なぜ一等車か。一等車は今のグリーン車というよりも飛行機のファーストクラスといったほうがいいだろう。そこには各界の名士や一流企業の社長たちが乗っている。目的地に着くまでにそこで週刊新潮の名刺を切り、知り合いを何人か作れというのである。それが編集部の財産になる。だから週刊新潮編集部の人間の多くは、定年まで他の編集部に移動しない者が多い。
しかし、新聞社系と伍して闘うには、小説と人脈作りだけでは武器が足りない。そこで週刊新潮や3年後に創刊された週刊現代、週刊文春などが模索した結果、新聞社系には絶対出来ない「武器」を発見したのである。「メディア批判とスキャンダル」である。当時、メディアといえば大新聞のこと。今もそうだが、新聞が他紙を批判することなどほとんどなかった。出版社系なら遠慮なくできる。それにツンとお高くとまっている新聞社系はスキャンダルなどには関心もなかっただろう。出版社系は「他人の不幸は蜜の味」である。
メディア批判とスキャンダルを選択し、少ない人数と取材をそこに集中したことによって、出版社系週刊誌は飛躍的に伸びたのである。以来60年。昔のような大部数は望めず、取材費や原稿料を削られ、事件取材をやらない週刊誌も多くなってきている。ノンフィクション・ライターが腕を振るう場も少なくなり、取材力やそのジャンルを扱える編集者の劣化がいわれて久しい。
こういうときこそ、創刊時の「選択と集中」を思い出すべきである。少ない人材と取材費をどのターゲットに向けるのかを真剣に議論して体勢を立て直さない限り、週刊誌は生き残れはしない。週刊新潮60周年にあたって、週刊誌に携わるみんなに考えてほしいものである。