2024年 5月 5日 (日)

「鎌倉殿の13人」 三浦義村と同族・和田義盛の「微妙な関係」とは 和田合戦を読み解く「なるほど」な動機
<歴史好きYouTuberの視点【第40回】>

「三浦党の主導権争い」とは

   北条義時のやり方に業を煮やした和田一族は、ついに挙兵します。

   和田一族と同族の三浦義村は、和田軍に味方することを約束していたものの、土壇場で起請文の誓いを破り、北条義時に加担しました。

   三浦義村は、和田義盛と同族であるにもかかわらず、なぜ和田を裏切ったのでしょうか。

   吾妻鏡によれば、義村は和田軍が将軍・実朝に弓を引いたことを口実に、北条方に寝返っています。たとえ起請文で味方を約束していたとしても、主君・実朝に危害を加えるなら話は別だという主張です。

   しかし、そんなことは挙兵の時点で想像できることで、実朝を危険に晒したくないというなら、最初から和田の挙兵に協力しない道を選んでいたはずです。

   義村は初めから和田一族を裏切るつもりで挙兵に参加していたと考えられます。

   その背景には、三浦党の主導権争いがあったのではないかと見る研究者もいます。

   本来、三浦党の長は、三浦を名乗っている義村でした。和田一族というのは三浦の分家です。(まだこの頃は「家」という概念が微妙なので、正確な表現ではないかもしれませんが)

   しかし、和田義盛は三浦義村よりも(推測で20歳ほど)年長で、京都からも三浦党の長は侍所別当・和田義盛だという認識があったようです(愚管抄による)。

   頼朝旗揚げ以来、武功を重ねてきた歴戦の勇士・和田義盛の存在感は、本来の当主・義村をも凌駕するほどになっていたようです。

   これに危機感を覚えた義村は、三浦党を和田一族に乗っ取られる前に、北条義時と協力して和田義盛排除に動いたのではないでしょうか。

   挙兵後、怒涛の勢いで鎌倉を攻めあがる和田軍でしたが、義村の裏切りによって背後を衝かれて瓦解し、和田義盛は戦死。一族も滅亡しました。

   三浦の名を背負った義村の非情な判断により、幕府は頼朝挙兵以来の股肱之臣を失ったのでした。

   さて、今回の記事はここまで。ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

   (追記:参考文献など)今回の参考文献は、『三浦一族の中世』や『北条氏と三浦氏』(いずれも高橋秀樹著、吉川弘文館)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。

   <第40回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2022年夏には登録者数が12万人を突破した。

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