2024年 5月 3日 (金)

「どうする家康」マメ知識
お田鶴の雄姿に涙 ...はさて置き、「女城主」説の根拠は?
<歴史好きYouTuberの視点>

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   NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回3月26日(2023年)放送回は「第12回 氏真」です。登録者数14万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)

  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」提供
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父は?母は?

   いや〜乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

   『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。

   さて、今回は逆境の中でも最期まで凛と立ち続けたお田鶴の方(椿姫)についてです。

   『どうする家康』では瀬名が田鶴は椿が好きだったと回想していましたが、これは家康と築山殿が田鶴を偲んで、椿を100本植えたという椿姫伝承から来ています。

   女城主としても名高いそんな田鶴について、実はその存在を証明する決定的な史料が現代でも見つかっていないことを皆様はご存じでしょうか?

   お田鶴の方は、明治28年(1895年)に出版された『皇朝金鑑』に『烈女』と書かれるほど世間では勇猛な女性として広く知られていました。

   その血筋はというと...両親ともはっきりとわかっておりません。

   父は今川家重臣の大原資良とも、また『浜松御在城記』では今川家重臣の松井宗信とも言われており、そして母については今川義元の妹と言われていますが、はっきりとした根拠つまり一次史料は発見されていないのです。

   なので『どうする家康』で採用されていた『鵜殿長照の妹』という説も俗説に過ぎないようです。

   やはり戦国時代の女性を研究する難しさは群を抜いていると改めて感じさせられますね。

二次史料との関係 「写し間違え」説も

   前回の『どうする家康』第11回(信玄との密約)ではなんといっても田鶴の最期に皆が悲涙をこぼしたことと思います。

   しかし、戦国時代にしかも遠州?(そう)劇(今川家家臣たちが一斉に氏真を裏切った事件)後の混沌とした地を、わざわざ裏切った家臣の妻に任せるなんてことは本当にあったのでしょうか?

   もともと曳馬城を任されていたのは、お田鶴の方の夫であった豊前守飯尾連竜(龍)でした。

   連竜はなんと先ほど述べた遠州?劇の発端になった人物です。

   『どうする家康』では、明確に飯尾家全体が今川家に敵対してしまう前に、城主である連竜を妻のお田鶴の方が氏真に密告し家康側に付いてしまう事を防ぐという話の展開になりましたが、この話の流れにもはっきりとした一次史料はありません。

   この話の元ネタは、お田鶴の方について記している二次史料からだと思われます。

   『武家事紀』や『浜松御在城録記』には、家康に内通していたと思われる連竜が永禄6年(1563年)に今川を離反し、永禄7年に家康に助けを求めながらも氏真に敗北した後に一度は氏真に赦免してもらっていますが、永禄8年にはなんとその氏真に誅殺されたと記されています。

   連竜が誅殺された際のお田鶴の方について、

『飯尾の妻女はこの城曳馬城に立て籠り、飯尾家が今川家に別心の無いことを駿府に訴える一方で、家臣の江間安芸守同加賀守を家康のもとに派遣した。』

と書いてあり、さらにその後については、お田鶴の方が8人の侍女たちと今川方として徳川と対抗し討死したと書いてあります。

   このように短い時間ではあるものの、お田鶴の方によって曳馬城は今川方とも徳川方とも言えない状態で連竜死後も存続していたと『武家事紀』や『浜松御在城録記』には記されています。

   また、その他の多くの史料からは比較的「曳馬城は反今川・親徳川である」と読み取れることから、お田鶴の方が女城主になったのかはひとまず置いておくとしても、少なくとも今川方として徳川家康と戦って討死したことはないのでは?との推察が主流のようです。

   むしろお田鶴の方は既に連竜と共に今川方に討ち取られており、曳馬城は新たな女主を迎えることなく廃城になった可能性が高いと考えられるのです。

   ならばなぜこのような記述が見られるのかというと、『武家事紀』と『浜松御在城録記』が共に、お田鶴の方の一次史料である可能性の高い『板倉殿書』を写し間違えたのでは?と言われています。

   曳馬城に1560年代よりも前に女城主がいて、その女城主が果敢にも戦って討ち取られたことを有名であるお田鶴の方と勘違いしてしまったのではという考証のようです。

   この『板倉殿書』さえ出てくれば、お田鶴の方の存在が証明されるだけでなく、戦国時代の女性群像をさらにアップグレード出来るのに...残念ですね...

大河ドラマがきっかけで研究が進むことも

   しかし「女だから」という理由から、お田鶴の方が城主になったことを否定することは出来ません。

   中世では夫が死んだ場合、妻が後家として家を取り仕切るのはよくあることです。

   古くには、去年の大河『鎌倉殿の13人』でも活躍していた北条政子、さらに今川では寿桂尼など、亡くなった夫の土地を妻が相続することが当たり前でした。

   中世は現代人が考えるよりもはるかに強い権力を女性が手に入れやすかったのです。

   それでもお田鶴の方は今の段階では伝承上の存在でしかありません。

   『女城主直虎』の時もそうであったように、大河ドラマがきっかけで研究が進むことはよくあることです。

   女城主お田鶴の方の存在が証明されて、戦国時代の同時期にふたりの女城主が存在したと証明される日が来ることを願っております。

   さて、今回の記事はここまで。

   ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

(追記:参考文献など)今回の参考文献は、『戦国「おんな家長」の群像』(黒田基樹著、笠間書院)や『今川義元とその時代 (戦国大名の新研究)』(黒田基樹著、戎光祥出版) など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。

<第11回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年1月には登録者数が14万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。

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