2024年 5月 5日 (日)

「どうする家康」マメ知識
家康「最大の悲劇」 信康切腹のナゾと歴史の流れ
<歴史好きYouTuberの視点>

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秀忠誕生との関係

   <天正7年(1579)>

   この年の4月に、ついに長丸(秀忠)が浜松で誕生しました。 名前からも家康の長丸に対しての期待がみえますね。

   この頃、家康が岡崎へ直接赴き、信康と五徳姫の夫婦喧嘩をたしなめるということがありました。

   喧嘩の原因は、五徳姫が男の子を産めなかったことや、どこまで本当かは不明ですが下手な踊り子を射殺したり鷹狩りに居合わせた僧侶を絞殺するなどの信康の残虐行為だとされています。

   五徳姫に対しても非常に暴力的な対応をしていたといわれており、それを信長に告げ口してしまったことで、信長から信康切腹を命じられたと『三河物語』には書いてあります。

   信長から信康切腹を命じられたこの時、酒井忠次はろくに弁明をしませんでした。

   しかし、『当代記』では信長に殺害を命じられたのではなく、家康から信長に相談をして、家康自身が殺害を決めたと書いてあります。

   8月4日に信康は岡崎を追放され大浜へ謹慎した後にいくつかの城を転々と移動、8月29日に築山殿が死亡、そして9月15日に二俣城で信康は切腹しました。

   <個人的な考察>

   結局のところ、家康と信康の関係に大きなヒビを入れたのは長丸が誕生したことだと思います。

   事件をおこした築山殿の息子であった信康は、どうあっても跡継ぎルートには戻れなかったのでしょう。

   信康は、同時代の書状からも「徳川」と名乗らず「松平信康」と名乗っていることがわかっていて、そこからも跡継ぎとして認められていなかったことがわかります。

   しかし、家康も無慈悲に殺害した訳ではなく、1カ月の間、城を転々とさせたのちに切腹させました。

   これは「義信事件」時の信玄のように、家康もなんとか関係を修復しようとした結果の期間でしょう。

   跡継ぎにすることは出来ずとも徳川一門としてなんとか関係修復をしようとしたのかもしれませんね...

   さて、今回の記事はここまで。

   ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

    (追記:参考文献など)今回の参考文献は、『家康の正妻 築山殿 (平凡社新書) 』(黒田基樹著、平凡社)、『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反 (中公新書)』(谷口克広著、 中央公論新社)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。

   <第20回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください。


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年春には登録者数が15万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。

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