2024年 4月 26日 (金)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(28)
「バイブル」が変質させた軍人教育

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明治、大正期の陸海軍大臣は政策に触れることに神経を使っていた

   明治10年代にこうした枠組みが決まっていき、そして大日本憲法の発布により法的体系の中に軍人の位置づけがされていったと言える。軍人のこうした社会的拘束は、むろん明治初期の国家づくりの折に自由民権運動を始め反政府勢力や不平士族の反乱などに軍人が関わることを極端なまでに恐れていたからである。ただこの時も、軍人の政治活動は禁止するにしても陸海軍の大臣はどうなのか、との懸念が残った。陸海軍の大臣は現役であれば、当然のこと、陸海軍刑法の適用を受ける。これが問題になったのは、1931(昭和6)年8月の南次郎陸相の部内の演説内容が新聞記者に発表されたときだ。これはおかしいのではないかとの論が起こる。つまり明治、大正期には大臣たちの演説は政策に触れることに神経を使っていたのに、昭和はこういう点に無関心だったのである。

   あえてもう一点付け加えておくが、大日本憲法発布の時の陸相の大山巌は、軍人はすでに発表されている軍人勅諭に忠実に従うが故に、天皇との結びつきは深いと訓示している。そこにはつぎの一節があった。

「天皇陛下に対し特別に親密なる情誼を保ち、其関係の下に呼吸するものたるべし。他の国民に比し、其感情の親疎固より同日の論に非るなり。(以下略)」

   軍人の政治不関与を改めて訴えつつ同時に、軍人のみが天皇と特別の紐帯で結ばれているという確認である。大山は、軍人に特異さを持たせるためにこのような訓示をおこなったのであろう。こう見てくると昭和の軍部(特に陸軍になるのだが)の国民に対するエリート意識は、全て明治期の日本国家の出発点に宿っていたといっていいであろう。

   昭和の軍事指導者は、自分たちこそこの国の指導者であり、臣民は我々の言い分を聞いていればいいのだといって、国家そのものを軍事体制国家に変えていった。だがその瞬間にこの国の「憲法の規定」は実質的に消えていったのである。昭和の軍事体制が完備していくにつれ大日本帝国憲法は日一日と死んでいったというべきであった。




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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