2024年 4月 27日 (土)

「規範を守らない人間は罰されて仕方がない」? 膨張するSNSがはらむ危うさ

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「一次情報」を見る前にバイアスがかかってしまう

   柴田氏は、「特に今はインターネットで、ジェンダー表象をフェミニズムやジェンダースタディーズの視点から批判することが一種のブーム。単なるブームとしてなら、賛否両論あるはずなんですけども、特にジェンダーフェミニズム問題となってしまうと、一元的にそれが正義と解釈されてしまう。実際はもっと精査しなければならないのに、『女性蔑視的な視点』だと、精査や批判することすら許されなくなってしまっている現状がある」と分析する。

   ――ジェンダー炎上が先にブームになっているという話だったが、背景の一つとしてSNSの発達が大きいのでは。

SNSの発達はコントロールできない状況です。「男女平等をもっとしていきましょう。差別をなくしましょう」。これは正しい理念ですよね。ですが、正しい理念が印籠になってしまっているがゆえに、内容が精査されない状況なのだと思います。
「働く女は、結局中身、オスである」という広告(※編注:女性誌「Domani(ドマーニ)」の働く母親をターゲットにした広告に対し、「制作者側の意識の低さと古さを感じる」などと批判の声が上がった、第2回参照)もそうですが、結局なんでも女性差別的に見ようと思えば見られるわけですよ。「Domani(ドマーニ)」のコピーは、本来ならば女性らしく振舞い、毎日きれいにお化粧するなどしたい人が、日々の慌ただしさで結局おろそかになってしまうような、自分の中の何となくの居心地の悪さを肯定するための言葉でもあります。働いているんだから仕方がないという、自分で自分を納得させる言葉です。「いまさらモテても迷惑なだけ」も、既婚女性が働くうえで無駄なトラブルを起こしたくないという素朴な感覚だと私は思うんです。批判者側にある、誰もが納得する画一的な生き方や考え方があるという考え方そのものがおかしいわけですよ。
一次情報の表象を見る前に、「なにかとても悪いことが起きているんだ」と印象操作やバイアスがかかってしまいます。(反対の)署名や異議申し立てそのものが扇情的なんですよね。一次情報である表象と、二次情報である表象批判が精査されずに、苦情を訴えた行為だけがツイッターや署名の人数なりで膨れ上がっていく。
ステレオタイプな観念もなく何かを欲望することって不可能だと思うんですよね。見たものなどを類型化して想像するというのが、人間の想像力の根本であると思います。全くステレオタイプな表現がだめとなったら、人間の性差を描くことはできなくなります。もう偶像崇拝の禁止ですよね。あるいは、性別も分からないような動物?そういうものでしか表現ができなくなってしまう。それを表現する人がいてもいいのですが、すべての人がクリオネやスライムでしか表現できないとなったら、それは読者にとっても、表現者にとってもうれしくない時代ですよね。そういうことをとりわけ作家だったら、もうちょっと考えてほしいなと。
実はこういうことは、1890年代くらいのイギリスで、第一波フェミニズム運動の中の女性小説家の間で起こっているんです。フェミニスト的な作家たちが「ステレオタイプな表現はやめよう」とか、「男女非対称な欲望を抱かせてしまうような表現はやめよう」と(運動して)なった結果、その人たちは結局、ほとんど作品を残せなかったんですよね。それまで、美術家や小説家などの表現する女性作家たちは、女性性によって社会から表現を狭められてきたんですよ。表現者であることよりも女性であることに重きが置かれていたために「その表現は女らしくない」「そもそも創作行為は女らしくない」と縛られ、男性作家より劣位に置かれていた。19世紀後半のフェミニスト作家たちは、その状況そのものに異議申し立てをするのではなく、男性作家にも同じように節制することを求めた。男性も同様に、女性と同じくらい規範的になるべきであると主張したんですよね。
そうした運動に対して、1950年代以降、フェミニストや女性作家たちが批判しています。1974年に、レベッカ・ウェストという小説家・批評家は、女性自身の女性観を根本的に変えようとしたフェミニスト作家の改革は失敗したという趣旨の批評「そしてみんな不幸せになりましたとさ」において、「「現代女性作家という講義を聞き終わってみると......ああ、私を騙さないで、ああ、私を捨てないで、どうしてかわいそうな娘をこんなにひどい目に合わせるの?」と歌う女性の大合唱を聞いたみたいな気分になります。」と書いています。フェミニズム文学の歴史と批評に関しては、E・ショウォールター『女性自身の文学 -ブロンテからレッシングまで』(みすず書房、1993年)が詳しいです。
表現規制は絶対だめだというのが過去90年代くらいまでのフェミニズムやクィア・スタディーズの基本姿勢だったのですが、最近は、簡単に言えばミシェル・フーコー、ルイ・アルチュセール、ジュディス・バトラーの権力批判の観点から中国共産党モデルに移行したのではないかと思っています。
「女は男の三歩下がって歩け」というように、美徳とされていた規範を必然的に疑うというのがフェミニストの基本姿勢だったのですが、最近は規範によって男女を平等にしようという流れに180度方向転換してしまったのです。現状の社会自体がとても規範的になっていますが、規範そのものが差別的な価値観を孕むということに無自覚です。
今は規範的じゃない振る舞いに対して社会全体が、特にSNSが発達して罰を与えられるようになってしまった。「規範を守らない人間は罰されて仕方がない」。それがSNS上の娯楽になってしまったのがあると思います。
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