2024年 3月 19日 (火)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(42)
軍人勅諭と戦陣訓――明治と昭和の戦時観の違い(その3)

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   この連載は、日本近代史の歴史空間を「可視」と「不可視」の尺度で分析していくのだが、むろん可視というのは史実そのものと言うことになり、不可視というのはそうした史実にはなっていないにせよ、歴史の背景、あるいは歴史的人物の精神と言ったような意味がある。

   1941(昭和16)年1月に陸軍大臣の東條英機によって示達された戦陣訓は史実でもあるが、不可視の部分ではこの戦陣訓は近代史の上ではどのような役割を果たしたのか、戦陣訓の精神とは何かを見ていかなければならない。その部分を改めて確認していくことにしたい。

  • 太平洋戦争の末期になると、「日本は決して負けない。なぜなら神風が吹くから」との論が流布された
    太平洋戦争の末期になると、「日本は決して負けない。なぜなら神風が吹くから」との論が流布された
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 太平洋戦争の末期になると、「日本は決して負けない。なぜなら神風が吹くから」との論が流布された
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん

近代日本で「戦争反対」の声が広がらなかった理由

   私は、近代日本がほぼ10年おきに戦争を繰り返したことに、不思議な感覚を持つ。戦争に反対の声がなぜそれほど大きく広がらなかったのであろうか。これも私の見るところだが 、戦争を続けたと言っても日本国内が戦場になったわけではないのだから、戦争を肌身で納得することはできなかった。そしてもうひとつの理由が、明治維新の出発時に問題があった。いうまでもなく近代日本は、政治よりも軍事が先行して進んだ国家であった。軍事システムと軍事精神が政治の上位に置かれたために、軍事を優先させ、軍事を国家の中軸だと捉える国家観を持ってしまったのだ。そのことが明確に現れているのが、1882(明治15)年の軍人勅諭、そして1941(昭和16)年の戦陣訓であった。

   この戦陣訓は、期せずして太平洋戦争の軍事の中核に据えられた。そのことを裏付けるのは、戦時下の1943(昭和18)年8月に国民向けに陸軍の教育総監部が刊行した「皇軍史」という書である。この書は軍人勅諭、戦陣訓が作り上げてきた精神世界を、極めて直截に語っている。その内容に驚かざるを得ないのだが、明治、大正、昭和(初期)の三代の天皇は、軍人勅諭を尊奉して軍人精神の本分を守るように諭されているとまずは説くのであった。その上で以下のように言う。

「我が皇軍は一意軍人勅諭を信奉し天地の公道人倫の常経として徹底的に理解せんことにつとめ、勅諭の中に溶け込んで以って軍人精神の錬成に邁進したのである」

   主君に忠誠誓った戦国時代、江戸時代の武士は「考え違い」と説く。

   さらに軍人勅諭でいう冒頭の「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある」との意味は、「神武天皇躬ら大伴物部の兵どもを率ひて中国(なかのくに)を平定し給ひし以来、歴世兵馬の大権を掌握あらせられ建軍の本義断乎として確立せられたる所以を明らかに御示しになった」と説明し、日本の軍人は天皇に忠誠を誓うのが建国以来の歴史であったと執拗に説いている。

   こういう歴史観から見れば、中世の戦国時代、そして江戸時代の武士は大いに考え違いをしていて、忠誠の根幹を主君に求めるとの過ちを犯したとも解説するのである。なんと不幸だったか、なんと小忠だったのか、と強い筆調で批判もしている。まさに天皇を現人神として敬い、臣下の軍人、兵士は神兵としての自覚を持てと何度も説いている。この皇軍史の内容は、現人神に忠誠を誓う神兵で成り立っている「神国」との認識であった。神国の戦争、つまり聖戦であるとも説いていくのだが、この極地に陥っている軍事指導部は、平時の戦争観が全く通用しない状況だったとわかる。

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