2024年 4月 27日 (土)

ツイッターでもかくしゃくとしていた内海桂子さん コロナで緊迫の世相を案じるツイートも

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二・二六事件、東京大空襲、終戦の記憶も

   1922年生まれの内海さんは、戦前・戦中を記憶している世代。「戦中派」らしく、当時の記憶も歴史的事件が起きた日が近づくとツイートしていた。1936年に起きた二・二六事件については

「コロナ騒動ですっかり2.26事件(原文ママ)を忘れていた。偶々TVで事件の番組を見てあ、そうだと。昭和11年私は14歳で三味線を習いだした。親の脛はかじらず色々動きまわってなんと職探し。学校に行かしてやるという約束でサンドイッチマンをしたが世の中甘くはなく断念。そんな時上野で沢山の兵隊さんを見た」

   と20年2月28日にツイート。45年3月10日に経験した東京大空襲の記憶は、

「昭和20年は毎日のようにB29が飛来して大体通り過ぎて行ったので空襲警報が出てもあまり防空壕には入らなかった。しかし3月10日は全く違っていて下町が燃え上がっていた。私は母と子供ら三人を連れて逃げ場に窮して近くの公園のくぼ地にトタン板をかぶって火をやり過ごした。隅田に逃げないでよかった」
と20年3月10日につづっている。2019年の終戦の日の前後には
「昭和20年8月15日は兵隊さんの慰問。常磐線に乗って水戸に。一行十名位。駅には迎えが来ておらず我々は歩いて会場に。ところが兵舎内は大混乱。手に手に軍隊の物品を持って帰っていく。「戦争は終わったよ」ですって。考えられない展開に唖然としたが何とか汽車に乗り夜中上野駅着。電灯が明るかった」(19年8月15日)
「終戦の日は仕事がドタキャンされた訳だが何の殘念さもなかった。喧騒の中水戸駅で汽車待ちしていたら勝手に上野行きが来て検札もないまま着いた。確か人出もなく街は静かだったがとにかく街中明るかった。部屋の隅々まで光がとどいて広々見えた。だが明日からどうなるのか分からない不安は大きかった」(19年8月16日)

   と回顧していた。灯火管制が解除された街の様子が印象に残っていたようだ。

   その他にも、

「私の昭和20年頃の相方はヒロポン愛好者で晩年まで手放さなかったらしい。当時ヒロポンは流行りもので薬局で普通に買えたし新聞等に広告が載っていた。頭がはっきりすると楽屋でも平気に話題にしていた。私も誘われたことがあるが全く興味はなかった。やがて覚せい剤に指定されて眼の前から消えてった」(19年3月13日)
「原子爆弾が広島に落とされ長崎に落とされても東京ではこれで戦争も終わりだという雰囲気はなかったと思う。物凄い爆弾が落とされたという噂は流れたが都心でも空襲で悩まされていたのでそれ以上は思いが回らない。焼夷弾で焼かれたが実弾攻撃の被害は受けていなかった。玉音放送は全く予想外であった」(18年8月8日)

   など、昭和の生き証人としての体験談をしばしば投稿していた内海さん。ツイッターユーザーにとっても、貴重な歴史の証言に触れられる機会を提供していた。

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