2024年 4月 19日 (金)

ツイッターでもかくしゃくとしていた内海桂子さん コロナで緊迫の世相を案じるツイートも

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   漫才師の内海桂子さんが2020年8月22日に亡くなっていたことが、8月28日に分かった。97歳だった。

   内海さんは1922年生まれで1938年に漫才師として初舞台を踏み、芸歴は80年以上の長きにわたった。近年はツイッターアカウントでかくしゃくと、そして冷静に世の中を語ることが多く、最後のツイートは緊急事態宣言下で緊迫する世の中を案じるものだった。

  • 内海桂子さんの生前最後のツイート
    内海桂子さんの生前最後のツイート
  • 内海桂子さんの生前最後のツイート

不安になる世を淡々と

   内海さんが中国で発生していた新型コロナに初めて言及したのは1月23日、

「隣国の肺炎騒動が同国内中に広まっていると報道された。これは大変な事になると心配しているが罹った人数が数千人と聞くとその数字が思ったより少ないと思ってしまうのは判断ミスか。日本の人口より数十倍多い人が旅行するんだそうでどれ位の罹患者が入国するのか危惧してしまうが対策は万全を期待す」

   と投稿している。東京都内で初めて患者が確認されたのは翌1月24日だった。2月13日には、

「新型コロナウイルスで八十代の女性が亡くなられたと大変ショッキングなニュースが流れたが大臣発表を聞いていても肝心の感染内容の説明がなくてただ不安が募るだけ。解説者が死亡率は高くない、手洗いをしっかりとという安易な発言をハイわかりましたと聞き流すわけにはいかずもっと調べてよと思った」

   とツイート。厚生労働省から国内初の死者が出たと発表された日である。2月下旬に安倍首相から一斉休校が発表され、マスクや消毒液の不足が報じられるようになり、市井の生活にも影響が出始める。内海さんも不安な心境を率直に投稿していた。

「他国のコロナ対策とその予算を聞いてうらやましい思い。早いし額が違う。日本の病院のマスクや消毒液の不足は信じられない位深刻らしい。無くなったらそれでお終いと聞くとまさかこの先進国がと愕然。金さえあればどうにかなるがあっても物がない現実にちゃんとやっている国もあるのになと失望感強し」(3月5日)
「欲しい人がいて買える商品がすくなければ高くても手に入れたいのが世の常でそれがゆるされるのが今の日本。公人として公費をもらっている人がその立場を見失ったのでは思考不足。なんで会社としてさばかなかったのかね。お上がもたもたしている内にしっかり儲けられたのに。今は三倍でも買いたいよ」(3月9日)

   感染者にまつわるデマや、買い物をめぐるパニックについての感想も。

「中国人が沢山集まる街の筆頭に浅草が入ると思うがコロナ騒動が持ち上がらないのは立派だと思っていたが周辺の病院が噂で相当叩かれていると聞いた。当事者に聞くと噂された医師は元気に働いているし隔離された患者もいないと断言。ツイッターの伝わる速さには驚くがデマはだめ。見極めるのも大変だね」(3月12日)

   3月下旬には東京ほか各地で感染者が急増し、知事らから不要不急の移動の自粛や、買い物におけるパニック防止の呼びかけが行われていた。政治家のコミュニケーションについても語っている。

「同じような要請をしても言う人の言葉使いや雰囲気で伝わり具合が微妙に違ってくるとしたら怖い話。言った本人が後で追加説明していたがそんな事より買い占めの必要はないと始めに言ってくれればきっちり安心できるのに。どれだけ若者が自制するかいらない心配をしている。近所のお店は普段通りだった」(3月26日)

   4月7日に緊急事態宣言が発令され、5月25日まで続いた。メディアでは毎日新規に確認された感染者数が伝えられていたが、数字だけが独り歩きする報道や、休業補償のあり方に疑問を持っていたようである。

「東京都のコロナ感染者数が二桁に減ったが今日は月曜でいつも数字は下がるらしい。しかしその説明が中々聞こえてこない。まだまだ気を引き締めないといけない。英国では店を閉めたら店員には給料の八割を国が保証すると言っていた。これは非常に明確な決め事で日本でもできないのかね。単純でよろしい」(4月13日)

   生前最後のツイートは4月14日で、休業要請によって閉店した店舗を案じるものだった。

「じわじわとコロナ騒動のしわ寄せがきて今や殆どのお店が閉まっている。近所の小さい店は閉めろと言われても日常の生活費が入らなくなるとかたくなに商売を続けていたが一つ抜け二つ抜けとなっている。本当にどうやって暮らしを立てていくのだろう。まだまだ色んな手当てに届かない小さな店が沢山ある」

変わらず咲く桜を見て

   ウイルスの蔓延に困惑する心情を率直につづっていた内海さんだが、例年と変わらない季節の変化を感じ取ったり、芸能・スポーツを応援するツイートも見られた。

「あれよあれよという間に東京は桜の満開宣言がでた。上野の桜がいつものように真っ白く咲いているのを見てホッとしている。まだ隅田の桜はテレビでは見ていないが酔客の唄声も聞こえない様に桜は何を思うか。これだけは延期も中止もありえない訳で自分の力で又来年を淡々と迎える自然の輪廻の妙に納得」(3月22日)
「客席にだれもいない試合もなんとなく見なれてきた。野球はひっきりなしの応援がなくなり選手間のかけひきに集中できる。相撲は神儀にのっとっている格式がよくわかり何となく納得させられた。ずっとこのままではないだろうが相撲の格を改めて認識して国技といわれる団体を維持していってもらいたいね」(3月11日)
「大相撲も観客なしで終わりそう。懸賞金がずっとかかっていたせいか力士のガチンコ振りはいつもと変わらなかったようにみえるがおとなしい相撲が多いように感じた。やはり観客の頑張れの声援は大切で特に最後の体勢の時の一声掛けは勝敗に影響を与え得る程の重さがあると思った。その一声で粘りが出る」(3月21日)

   3月24日には、新日本フィルハーモニーがリモート演奏で「パプリカ」を演奏した動画をYouTubeに投稿する。これについても、

「コロナに負けまいと色々な人か(原文ママ)歌を歌ったり拍手をしたり工夫をこらしているが新日本フィルのみなさんが素晴らしい演奏を披露した。一人一人個々の画面に収まってそれぞれの楽器を奏でてそれを大画面に一曲としてまとめ上げた大変手の混んだ力作。相当な時間を要したらしいが離れていてもうまくやれた」(3月27日)

   と評していた。

二・二六事件、東京大空襲、終戦の記憶も

   1922年生まれの内海さんは、戦前・戦中を記憶している世代。「戦中派」らしく、当時の記憶も歴史的事件が起きた日が近づくとツイートしていた。1936年に起きた二・二六事件については

「コロナ騒動ですっかり2.26事件(原文ママ)を忘れていた。偶々TVで事件の番組を見てあ、そうだと。昭和11年私は14歳で三味線を習いだした。親の脛はかじらず色々動きまわってなんと職探し。学校に行かしてやるという約束でサンドイッチマンをしたが世の中甘くはなく断念。そんな時上野で沢山の兵隊さんを見た」

   と20年2月28日にツイート。45年3月10日に経験した東京大空襲の記憶は、

「昭和20年は毎日のようにB29が飛来して大体通り過ぎて行ったので空襲警報が出てもあまり防空壕には入らなかった。しかし3月10日は全く違っていて下町が燃え上がっていた。私は母と子供ら三人を連れて逃げ場に窮して近くの公園のくぼ地にトタン板をかぶって火をやり過ごした。隅田に逃げないでよかった」
と20年3月10日につづっている。2019年の終戦の日の前後には
「昭和20年8月15日は兵隊さんの慰問。常磐線に乗って水戸に。一行十名位。駅には迎えが来ておらず我々は歩いて会場に。ところが兵舎内は大混乱。手に手に軍隊の物品を持って帰っていく。「戦争は終わったよ」ですって。考えられない展開に唖然としたが何とか汽車に乗り夜中上野駅着。電灯が明るかった」(19年8月15日)
「終戦の日は仕事がドタキャンされた訳だが何の殘念さもなかった。喧騒の中水戸駅で汽車待ちしていたら勝手に上野行きが来て検札もないまま着いた。確か人出もなく街は静かだったがとにかく街中明るかった。部屋の隅々まで光がとどいて広々見えた。だが明日からどうなるのか分からない不安は大きかった」(19年8月16日)

   と回顧していた。灯火管制が解除された街の様子が印象に残っていたようだ。

   その他にも、

「私の昭和20年頃の相方はヒロポン愛好者で晩年まで手放さなかったらしい。当時ヒロポンは流行りもので薬局で普通に買えたし新聞等に広告が載っていた。頭がはっきりすると楽屋でも平気に話題にしていた。私も誘われたことがあるが全く興味はなかった。やがて覚せい剤に指定されて眼の前から消えてった」(19年3月13日)
「原子爆弾が広島に落とされ長崎に落とされても東京ではこれで戦争も終わりだという雰囲気はなかったと思う。物凄い爆弾が落とされたという噂は流れたが都心でも空襲で悩まされていたのでそれ以上は思いが回らない。焼夷弾で焼かれたが実弾攻撃の被害は受けていなかった。玉音放送は全く予想外であった」(18年8月8日)

   など、昭和の生き証人としての体験談をしばしば投稿していた内海さん。ツイッターユーザーにとっても、貴重な歴史の証言に触れられる機会を提供していた。

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