日本で学んだ技法で、母国に広める高麗仏画 「それが私の仕事」韓国出身の美術家の思い

提供:公益財団法人韓昌祐・哲文化財団

   10世紀初めに朝鮮半島で成立した高麗(こうらい)王朝は、李氏朝鮮(朝鮮王朝)が成立する1392年までおよそ500年続き、始祖は仏教を国教と定めた。この時期に描かれた多くの高麗仏画は、阿弥陀仏(あみだぶつ)や観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)などを繊細な筆致と華麗な色調で描き、今に至るまで世界中で高い評価を受けている。

復元模写を通して作品制作
奈良国立博物館所蔵の「水月観音像」の月光が、描き手によってどのように表現されたのか。それを解明するために復元模写を通して作品制作が始まった。

世界で高麗仏画は165点、うち日本に130点も

   世界中にある165点ほどの高麗仏画のうち、なんと130点以上が日本にあるという。その理由を、公益財団法人韓昌祐・哲文化財団の2018年度助成受贈者で文化財博士である金慧印(キム・ヘイン)(東京藝術大学文化財保存修復 日本画研究室専門研究員)は次のように説明してくれた。

「絵によって、いつ日本に渡ってきたのかははっきりしていないのです。記録もありません。ただ、高麗王朝から李氏朝鮮に変わった時、国教も仏教から儒教へと変わったため廃仏運動が起きました。こういう時期に来たものもあるでしょうね」

   明治時代、日本では廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れ、貴重な仏像が壊されたり海外に流出したりした。幸いそれは短期間で終わったが、朝鮮半島では李氏朝鮮が500年ほど続いている。高麗王朝は美しい仏画や工芸品を作り、1995年ユネスコ世界文化遺産に登録された海印寺(ヘインサ)の「高麗大蔵経」(こうらいだいぞうきょう)を編纂したが、李氏朝鮮はそれとはまったく違う宗教的な歴史を刻んだと言えるだろう。

原本の色調に近づくのかを試す
どんな顔料をどのくらいの厚さや濃度で彩色したら、原本の色調に近づくのかを試す。いくつもの彩色サンプルを作って、顔料を混ぜる時の比率などを確認する。

   一方日本では、請来(しょうらい)した高麗仏画を非常に大切にしてきた。博物館や美術館にあるものもたまに公開される程度だし、寺院や神社にあるものは「お宝」どころか、それ自身が本尊(ほんぞん)や御神体(ごしんたい)となって信仰の対象とされている。

「あまりにも大切にされているので、ご開帳でもない限りは一般の方の目に触れることはありません」

   繊細な高麗仏画を保つには必要なことかもしれないが、その魅力を伝えるためにはやはり見てもらうことも大事である。そこで行われるのが復元画の制作である。高麗仏画が描かれた当時のものに近い材料を使い、技法を研究し、寸分違(たが)わぬように模写していくのである。

   金(キム)が描いた奈良国立博物館が所蔵「水月観音像(すいげつかんのんぞう)」の復元模写の画像を見せてもらった。実に品のある観音菩薩(かんのんぼさつ)がほのかな月の光に照らされて座っている。上方には金泥(きんでい)で淡い月が、下の方には岩や水の中にいる龍が描かれている。

   観音菩薩がまとう衣には繊細な紋様が描かれ、装飾の細かさは当時の絵師の高度な技術をうかがわせるものだ。もちろん実際に描いたのは金自身だが、正確に技術を再現しているため、そのように思わせるのである。

「高麗仏画は彩色(さいしき)が美しいところに特徴があります。金泥の線もきれいに残っています。それが韓国の仏画のアイデンティティだと思います。ところが国内には15点くらいしか残っていないのです」

   金はこれらの技術を、東京藝術大学大学院で学んだ。彼女は韓国の美大で東洋絵画を専攻したのち、2年間働いて学費を作り大学院に進んだ。

「韓国で東洋絵画を専攻していた頃、自分の描いた絵が雨に濡れてしまったことがありました。乾かせば問題ないと思っていたのですが、顔料が乾燥する過程でヒビが入り始め、変色して保管できなくなったのです」

   あれだけ苦労して描いた絵が、ちょっと雨に濡れただけで失われてしまう。材料に問題があったのが原因だったが、金には大変なショックだった。それをきっかけとして絵の修理や材料研究に興味を抱き、高麗仏画の復元研究に取り組むことになった。それなら日本で学ぼうと考えた。

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