名優・仲代達矢さん死去92歳、「赤秋」をまっとう 「少女の腕が...」強烈な戦争体験

   映画や舞台、テレビで大活躍し、文化勲章も受章した俳優の仲代達矢(なかだい・たつや、本名・仲代元久=なかだい・もとひさ)さんが2025年11月8日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。92歳だった。

   「人間の條件」「用心棒」「影武者」「乱」「大地の子」など多数の名作に出演し、鬼気迫る迫真の演技で国際的にも高く評価された仲代さん。ノーブルなイメージからは想像できない苦労人だった。

  • 仲代達矢さん(写真:スポーツ報知/アフロ)
    仲代達矢さん(写真:スポーツ報知/アフロ)
  • 仲代達矢さんと黒谷友香さん。黒谷友香さんのインスタグラム(@tomoka_kurotani)より
    仲代達矢さんと黒谷友香さん。黒谷友香さんのインスタグラム(@tomoka_kurotani)より
  • 仲代達矢さん(写真:スポーツ報知/アフロ)
  • 仲代達矢さんと黒谷友香さん。黒谷友香さんのインスタグラム(@tomoka_kurotani)より

10歳になる前から働く

   自伝的著書『演じることは、生きること――人生の舞台で紡いだ言葉』(PHP研究所)によると、父はバスの運転手だった。しかし、仲代さんが8歳の時に結核で亡くなった。

   そのため、仲代さんは10歳になる前から働いて家計を助けていたという。明日食べるものはイモの葉っぱしかない、ということもあった。終戦直後の中学時代は、「ポン菓子屋」や製麺工場などで働き、世田谷・千歳烏山の駅前で梅干し売りをしていたこともある。その後、小学校の用務員の仕事にありつき、ようやく定時制高校に通えるようになった。

   こうした仲代さんの少年時代で最も強烈な体験は戦争だ。

   小学校を卒業した直後の1945(昭和20)年5月25日、東京・青山で「山の手空襲」に遭遇した。12歳の時だった。大挙して押し寄せるB29が焼夷弾を雨あられと落とす。爆発音、悲鳴、土煙。小さな女の子がはぐれているのを見つけ、とっさにその子の手を引いて逃げ回った。ところが、その手が急に軽くなった。

「私は、片腕一本を握っていました」

   焼夷弾が、女の子の体を吹き飛ばしていたのだ。あとわずかにずれていたら、仲代さんがやられていた。気が動転した仲代さんは、握っていた片腕をその場に置いてきた。

   どうして持ち帰って供養してやらなかったのか・・・。

「あの感触とともに、いまだに非常に悔やんでいて、夜中に夢にまで見ることがあります。こうして今も生かされているのは、あの地獄の時間を共有した子が生かしてくれているのではないかと思っています」

   仲代さんはそう振り返っている。

   新宿あたりでは、墨のようにまっ黒になった死体が、苦しんだ格好のまま野ざらしになっていた。そしてほどなく無条件降伏。大人たちの多くがコロリと親米に早変わりしたことに驚いた。

「だったら、絶対に悪くなるもんか」

   早世した父の思い出も強烈だ。臨終のとき、4人の子どもは父の布団の周りに座らせられ、一人ずつ父の手を取って最期の別れをした。父は仲代さんの手を握るとじっと顔を見て、突然母にこう言った。「こいつはちょっと悪くなる。不良にならないように気をつけろ」。

   仲代さんは小さいころから恥ずかしがり屋で内気な少年だった。父がなぜ「不良になる」と言ったのか分からない。「だったら、絶対に悪くなるもんか」と心に誓った。

「戦後のどさくさで不良になる子供がいくらでもいた中で、私は強く正しく生きたと堂々と言えるのは父の言葉のお蔭。ある意味で、これは素晴らしい遺言だったわけです」

   定時制高校時代、仲代さんは将来、できれば出版社で働きたいと思っていた。子どものころから本好き、読書家だったからだ。早稲田大学の夜間部を受けたが不合格。それでは、小説家になれないかと思って原稿用紙200枚ぐらいの習作を出版社に送ったが、なしのつぶて。ボクサーにも挑戦したが、向かないと思ってあきらめた。

「赤秋」という言葉を大切に

   どこかに学歴不要の仕事はないか。そう思っていた時に、夜間高校の友人に「お前は顔がいいからから役者になれよ」とすすめられた。

   仲代さんは映画が大好きで、よく見ていた。なけなしの金をはたいてパンフレットも買っていた。欧米の俳優のプロフィールを見ると、だれもが大学の演劇科や有名な演劇学校を出ている。そんなこともあって、仲代さんも俳優座養成所の門をたたくことにする。父親は背が高かった。母親は声がデカかった。その両親の資質を受け継いでいた。

   ちょうどその年は俳優座が、「大柄な新人」を求めていたことも幸いした。20倍の競争率にもかかわらず養成所に潜り込めた。さらにそこから50倍といわれた競争を突破して晴れて俳優座に入ることができた。合わせれば「1000人に1人」という狭き門をくぐり抜けたことになる。

   その後の役者人生は、よく知られている。基礎となったのは「舞台俳優」としての矜持だ。テレビや映画と違って、舞台では「カット」がない。このため役者には、高い演技力が求められる。

   たとえばセリフは全部覚える。相手役の分も含めてだ。脚本からセリフ部分を大きな紙に書きだして、家じゅうに貼って頭に叩き込む。映画撮影でも台本は持参しない。もう全部覚えていたからだ。主役が台本なしだと、わき役陣も緊張し作品が引き締まる。

   同じく俳優・演出家で、65歳で亡くなった妻の宮崎恭子さんの造語「赤秋」という言葉を大切にした。紅葉が散る前に真っ赤に燃える秋――。妻がこの言葉を口にしたのは、がんが見つかったころだった。

   「自分という葉が朽ち果てるまでの残された時間は真っ赤に燃えて生き切りたい」。その思いが、老境に入った仲代さんの背中を押した。そして90歳を過ぎてもなお「現役最高齢俳優」として舞台に立ち続け、「赤秋」をまっとうした。

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