「他の出来事と比べても破格の扱い」「過熱だったと言わざるをえない」
慶應大メディア・コミュニケーション研究所教授の津田正太郎氏(メディア論)は、上記のデータを受け、「過熱だったと言わざるをえない」と指摘する。
「4月13日から17日にかけての放送量がものすごい。他の出来事と比べても破格の扱いを受けている。メディアの報道量を比較することは難しいのだが、それでも今回の報道は多すぎたと言わざるをえない」
では、京都男児殺害事件が「過熱報道」になったのはなぜか。津田氏は、その理由は番組や現場の当事者に聞かない限り判断できず、外部からは一般論として説明することしかできないと留保した上で、複数の要因を挙げた。
1つ目は、事件が「現在進行形」で展開したことだ。行方不明から所持品の発見、遺体の発見、逮捕といった経過が段階的に明らかになり、視聴者の関心が次第に高まる。テレビ局もその反応を見ながら放送量を増やす。このような循環が生まれていたという。
さらに、進行中の事件は視聴者が関与しやすく、「誰が犯人か」「なぜ起きたのか」という考察が起こりやすい。テレビでもSNSでも「ああでもない、こうでもない」と語れる余地がある。この点も「大きな特徴だった」と津田氏は分析する。
2つ目は、テレビという媒体の特性に関わる。多くの話題をカバーできる新聞に比べ、テレビは扱う話題を絞り込まざるをえず、特定の話題にリソースが集中しやすい。また、いわゆる「絵になる」要素が多い話題ほど繰り返し取り上げやすいという。
3つ目は、被害者が「子ども」だったことだ。津田氏によれば、ニュース研究には「理想的な被害者」という概念がある。子どもや高齢者のような人々が被害者だった場合、視聴者から「脆弱な存在」だと認識され、共感を集めやすいという。
4つ目は、テレビ局同士の横並び意識だ。ある局が大きく扱わなければ、「他局はあれほど報じているのに、なぜ報じないのか」と問われかねない。各局が互いの動向を意識して同じような報道をしてしまい、その結果、特定の報道に偏ってしまう傾向がある。
一方で津田氏は、じつは「どこからが過熱報道なのか」を客観的に線引きすることは難しいとも話す。どの報道を「重要」とみなし、どの報道を「過熱」だとみなすかは、受け手の価値判断が入り込むからだ。
「京都の事件が過熱だったと言ったのも、最終的には私の価値判断です。しかし他のいろんな出来事と比較しても、やはり報道量が多すぎたんじゃないかと思います」
改めて「過熱だった」と指摘した津田氏。では、過熱報道にはどのような問題があるのか。
1つ目は、報道のリソースが特定の事件に偏ることだ。人員や放送時間などは有限である以上、取り上げる話題は取捨選択せざるをえない。だが一つの事件を過度に報じれば、それ以外の出来事が報道されなくなる。
さらに、その出来事に対する社会的関心を高め、新情報に対する大きな需要を生み出すにもかかわらず、それが出てこないということも起きる。それでもメディア側が無理をして供給を続ければ、伝えられる情報の質は必然的に悪くなる。他方で、読者や視聴者が新しい情報を求め、根拠不明の情報に飛びつく危険性もあるという。
2つ目は、現地の住民や関係者への負担が大きくなることだ。特定の地域に多数の報道関係者が集まれば、メディアスクラム(集団的過熱取材)が起こりやすくなる。
こうした状況に対し、メディアはどう改善すればよいのか。津田氏は「たとえばメディアの内部にいたとして、京都の事件を取り上げないという選択を取れるのかと問われると、多分難しいだろうと思う」と率直に述べ、単純な解決策を示すのは難しいと語った。
津田氏は答えに苦慮しつつ、「自分たちが何を伝えるべきなのかを考える必要がある」「目先の数字にある程度左右されない努力も必要なのではないか」と指摘した。