「フジ三太郎」の先輩に当たるのが「サザエさん」です。朝日新聞でともに大人気となった4コマ漫画です。「サザエさん」は、何度もアニメやテレビドラマにもなり、「戦後の日本人」を考えるとき、欠かせない資料にもなっています。
「サザエさん」と「フジ三太郎」はどこが違うのでしょうか。そこから「フジ三太郎」のユニークさが見えてくるかもしれません。
朝刊で「サザエ」、夕刊で「三太郎」の時代も
「サザエさん」は朝日の朝刊に昭和26年から昭和49年まで連載されました。昭和40年4月1日からは夕刊で「フジ三太郎」が連載されています。
一時期の朝日は朝刊で「サザエさん」、夕刊で「フジ三太郎」を読むことができました。そして「サザエさん」の終了後に、しばらくして「フジ三太郎」は朝刊に移ります。
「サザエさん」は、まさに日本が廃墟から立ち上がり、高度成長を実現するまでの物語です。主人公は主婦で、「三種の神器」といわれた家電製品が登場するたびにドタバタ大騒ぎ。今から見ると、時代的にどうしてもやや古い話が多くなり、社会的生活よりは、隣近所や家族内の出来事が中心です。
登場人物の役柄は、連載時期によって多少の違いはあるようですが、サザエさんは快活でおっちょこちょい、マスオさんは頼りない婿などと、あらかじめ与えられた、多少デフォルメされたキャラクターになっています。どちらかといえば、面白おかしさを強調する設定です。とくにアニメ版では登場人物の役柄が決まった「ホームドラマ」の色合いが濃くなっているようです。
そうした「サザエさん」に対し、「フジ三太郎」は、三太郎以外の登場人物については、いわゆる「キャラ立ち」を抑制しています。固有名詞など思い出せないくらいです。わざと印象に残さないような慎重な描き方がされている、というべきかもしれません。いわばほとんど匿名の、「どこにでもいる隣人」のような普通の人々が、三太郎を取り囲んでいます。
「そんな人、いるよね」「あるある、そういうこと」
主人公の三太郎自身も、どこにでもいそうなサラリーマン。したがって三太郎をはじめとする登場人物に、読者は容易に自分自身を重ねることが可能です。読み手とまさに等身大の登場人物で構成されているからです。
漫画の主題は、家庭だけでなく会社や通勤途上のささいな出来事や見聞、社会問題など多彩です。「サザエさん」より幅が広がっています。そうした意味でも「フジ三太郎」はまさにあの時代の「普通の日本人」の様々な思いをつづったノンフィクション性の強い物語となっています。
したがって登場人物の様々な姿や彼らが織り成すエピソードに、読者は自分や身近な人々を思い浮かべ、素直に感情移入することができます。「そんな人、いるよね」「あるある、そういうこと」というわけです。それが、「フジ三太郎」があの時代の普通の人々の生活ぶりや物の感じ方を象徴的に表現しているといわれるゆえんではないでしょうか。
三太郎は「モーレツ社員」がもてはやされた時代に、どこか醒めていて超然としています。昇進の希望は捨ててはいませんが、そのためにじたばたすることは潔しとしません。会社人間はとかくしがらみや気遣いでくたびれ果ててしまいがちですが、三太郎には自由な精神があります。ときに竹林の七賢人のような達観したことをつぶやいたりします。
そんな三太郎のへこたれない、したたかな生き方は、時代を超えて今のサラリーマンにとっても魅力がないはずはありません。まだ人々の心にそのような伸びやかさがあり、三太郎のような人間も「憎めないヤツ」とされていた――。そんな時代に今の私たちがほのかな郷愁を感じるのかもしれません。