2024年 4月 24日 (水)

【震災10年】その時、自治体はどうしたのか!? 中途退職する職員が多かった被災地

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   2011年3月11日の福島第一原子力発電所の事故当時、現地の役場では何が起きていたのか。国や県からの支持もなく、事故対応マニュアルは役に立たない。そして水素爆発の重い音が町中を揺らした。

   事故から避難、そして復興......。自ら被災者でありながら簡単には話ができない立場の自治体の幹部職員が重い口を開いた。本書「原発事故 自治体からの証言」には、原発災害の過酷な状況に直面した自治体職員の貴重な証言が収められている。

「原発事故 自治体からの証言」(今井照・自治総研 編)筑摩書房
  • 海岸から見た原子力発電所
    海岸から見た原子力発電所
  • 海岸から見た原子力発電所

情報は入らず、複合災害を想定せず

   編者の今井照さんは公益財団法人地方自治総合研究所(自治総研)主任研究員。東京都教育委員会、東京都大田区役所、福島大学教授を経て現職。著書に「自治体再建――原発避難と『移動する村』」(ちくま新書)などがある。

   今井さんが執筆した「原発事故と自治体」「データから見た被災地自治体職員の10年」の2章のほか、今井さんが福島県大熊町の石田仁・前副町長と浪江町の宮口勝美・前副町長へのインタビューを基にした証言で構成されている。

   今井さんは自治体職員の難しい立場について、こう書いている。

「彼らは国や県とも、あるいは住民とも立場が異なる。市町村長や知事とも違う。彼らもまた日常を喪失した被災者であるにもかかわらず、そのことを安易に口には出せず、住民に対しては支援者であり、組織の中では統治の一翼を担う。意にそぐわないことにも手を着けざるを得ないし、そのことをおくびにも出せない。しかしそういう彼らを支えることができるのもまた住民なのである」

   ともあれ、彼らは一義的にもっとも住民に近い公務員であり、原発事故が起き、率先して住民を避難させなければならなかった。情報が乏しい中で、どう対応したのか。第一原発が立地する大熊町の石田さんは当時、農業委員会事務局長だったが、災害対策本部の補助に入った。

   福島第一原発と役場をつなぐホットラインは断線して通じず、第二原発を経由して第一原発の原子炉が緊急停止したという連絡が入ったという。停止したなら、後は冷やして閉じ込めるだけだから大丈夫だと思った。

   21時前に県が独自に2キロメートル圏内の避難指示を出したと後で知ったが、町では誰も聞いていない。テレビで3キロ圏内の避難指示、10キロ圏内の屋内退避を聞いてから、「ああ、ようやく出たね」という話になったという。

「原子力防災訓練はやっていたが、複合災害は想定しておらず、まして原発は大丈夫だ、安全だと教え込まれており、このような地震・津波と原発という複合災害に対してどう行動するかは考えていなかった」

移動を繰り返した仮役場

   3月12日午後に役場から避難するときになって、東電の連絡員がファイルで鼻と口を隠しながら外に出てきたので、「こいつら放射能汚染を隠していたなとハッと気づいた」という。その直後に水素爆発の音を聞いた。それから西へ車で避難。田村市の総合体育館に開いた町の災害対策本部に入った。

   この後、4月4日、大熊町の町民は100キロメートル離れた会津に移る。役場本体も会津若松市に移った。災害対策本部は殺気だった町民からの電話対応に追われた。「町長を出せ」とすごまれ、職員はストレスを抱え、耐えられなくなって退職したり休職したりする職員が増えていったという。

   町にはいま、除染廃棄物の中間貯蔵施設が立地する。原発立地町民へのバッシングがあり、どうしても放射線量の高いところに中間貯蔵施設をつくらざるを得なくなった。最終処分場にしないこと、町民の放射線被曝のデータをつくることが副町長としての課題だったという。

   「福島原発事故というのは世界最大の公害事案だ。国としては東電とともに事故処理に責任をもってあたり、海外に向けても正確な発信をしてほしい。きちんと検証して復興することになって、日本の国威はオリンピック以上にあがると思う」と話している。

   一方、浪江町は福島第一原発から少し離れているが、中心部が10キロ圏内にあったから避難の対象になった。役場は原発から30キロ離れた支所へ移動。そこも危ないと、さらに20キロ離れた二本松市へ。住民がどっと押しかけ、収拾がつかなくなり、二本松市に合併した旧東和町役場を借りた。乗っ取ったような形になったが、「本当に感謝している」と宮口さんは話している。

   正職員は160人いたが、事故直後は職場に来なかった職員が40人から50人いたという。そのうち30人ほどは高齢の親を置いておけないと避難した人たちだった。課単位では動けなくなり、課をばらして班単位にした。職員は精神的に参ったり、体を壊したりした。

   仮役場は二本松市内の県施設に、さらにプレハブの建物に移った。復興予算が入り、事業は増えるが、職員の絶対数が不足。また退職者が多いので、管理職の承認も早くなる。年齢構成のバランスがいびつになり、職員のストレスも増したそうだ。

事故前にいた職員は4分の1に

   一部地域の避難指示解除をいつにするかが苦渋の決断だったという。賠償の期限や仮設住宅の廃止とも絡むからだ。震災当時いた職員はもう半分もいない。宮口さんも二本松市に家を建てた。「一刻も早く帰還困難区域の全体の除染や家屋の解体に向けた方針を示してほしい」と訴えている。

   今井さんが被災地自治体職員の調査データを分析している。正職員は半数で、そのうちさらに半数が事故後に採用された職員だ。つまり事故前から働いている職員は4分の1だ。

   事故直後に中途退職者が多かったからである。50代の管理職が多く、行政運営にも支障が出た。応援職員(任期付採用職員と他自治体からの派遣職員)でカバーしたが、岩手県、宮城県では2015年をピークに減少傾向にあるが、福島県はその後も増え続けている。

   今や浪江町では半数が、大熊町でも4分の1が応援職員だ。復興のステージが上がると、ますます業務量が増え、応援職員も増えていくと今井さんは推測している。

   通読して感じたのは、自治体職員のストレスの激しさだ。住民のやり場のない怒りや不安が彼らにぶつけられる。「自分も被災者なのに」と言えない苦しさ。中途退職者の多さがそれを物語っている。

   東日本大震災を教訓に、素早く広域的な自治体職員の応援体制が構築できないものだろうか。日本全国、どこが被災自治体になるのかわからないからだ。(渡辺淳悦)

「原発事故 自治体からの証言」
今井照・自治総研 編
筑摩書房
880円(税別)

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