2024年 4月 27日 (土)

日本の資本主義を築いた渋沢栄一と岩崎弥太郎は喧嘩別れしていた!

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渋沢栄一のリベンジ

   1882(明治15)年、大隈重信を党首とする立憲改進党が誕生すると、政府は反政府政党である改進党の運営資金が三菱から出ていると考え、対抗することを考えた。西郷従道農商務卿は、新たな汽船会社の創設を政府に上申。栄一、益田孝ら三井系、関西財界の大物が参加し、共同運輸会社が誕生した。2年前のリベンジだった。

   河合さんは、この会社の実態は「ある意味日本海軍といってもよかった」と書いている。株式組織だが、同社に与えられた政府の命令書には、会社に付与された船舶は海軍の付属とし、戦時や有事の際は海軍卿の命令で海軍商船隊に転じる規定があったからだ。社長、副社長には海軍軍人が就いた。三菱にとって存亡の危機が訪れたのだ。

   両社は激しく競い合い、果てしのない廉価競争となった。乗客の奪い合い、スピード競争を繰り広げた。船の衝突事故も起きた。三菱は徹底抗戦したが、弥太郎が明治18年(1885)に胃がんで急逝。弟の弥之助が社長になり、共同運輸との合併を了承した。こうして日本郵船会社が誕生した。

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