2024年 4月 25日 (木)

【7月は応援! 五輪・パラリンピック】1964年の東京パラリンピックは3つの名称を持つ大会だった!

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ロンドン五輪と同じ日に開かれた第1回の競技大会

   グットマンは1948年7月29日、ストークマンデビル病院で16人の車いす選手が出場し、アーチェリー大会が開かれた。パラリンピックのルーツとされる第1回のストークマンデビル競技大会である。この日、少し離れたロンドンでは第14回オリンピックの開会式が開かれていた。「オリンピックの開会式と同じ日の開催となったのをグットマンが強く意識していたのは間違いない」と書いている。

   その後、ストークマンデビル競技大会は、少しずつ出場者と種目を増やしながら発展していった。1960年、初めてイギリスを離れてイタリアのローマで開かれた。夏季オリンピックが開かれた都市で、オリンピック開催後に開くという形はこれが最初だった。23の国から400選手が参加したこの第13回は、国際パラリンピック委員会が設立されたのち、第1回のパラリンピックとして認定された。

   さて、日本に帰国した中村は大車輪で動き始める。まず勤務していた国立別府病院で患者にスポーツを勧めた。1961年には「大分県身体障害者体育協会」を県とともに設立した。障害のある者は安静にしていなければならないという常識に反した行動に批判が集中した。

「身障者を公衆の前に引き出して、サーカスのような見世物をやろうというのですか」
「体調を崩して余病を併発する危険がある」

などというものだった。中村はひるまず、同年10月に第1回大分県身体障害者体育大会を開催した。だが、ほとんど黙殺されたという。

   中村は「まずは騒がれなければならない」と東京のメディアに働きかけるとともに、62年、英国のストークマンデビル大会に日本選手を派遣しようと計画する。こうした動きは反響を呼び、池田勇人首相との面会も実現。身体障害者のオリンピックへ政府が協力する約束を取り付けた。

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