2024年 4月 20日 (土)

パノプティコン(全展望監視システム)で生きることは、本当にまずいことなのか

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■『「健康格差社会」を生き抜く』(近藤克則著)

■『Panopticon』(ジェレミー・ベンサム著)

    『「健康格差社会」を生き抜く』(2010年)で、著者の近藤氏は、データーベースに基づく分析を通じ、経済格差と健康格差との間に顕著な相関関係があると指摘している。お金持ちは、①転びにくく、②よく眠り、③うつが少なく、④要介護リスクや虐待が少なく、⑤元気で長生きで、⑥死亡率が低い、という。本書によると、これらの関係は必ずしも因果関係であるとまで明らかにされているわけではない。すなわち、経済格差が存在するが故に健康格差が存在することの検証が済んでいるわけではない。ただ、検証の不足を認めた上で、近藤氏が提言するのは、検証が完了するまで対策を先送りすることよりも、相関関係に基づく確からしさをもとに対応を始めることである。

『「健康格差」を生き抜く』(近藤克則著、朝日新書)
『「健康格差社会」を生き抜く』(近藤克則著、朝日新書)

社会環境への介入を通して健康格差是正

   公衆衛生対策との類推に基づき、近藤氏はこのアプローチを「社会疫学」と呼んでいる。具体的には、健康状態を個々の単なる自己責任に帰するのではなく、不健康な行動をとらせていることには社会にも責任の一端があるとし、社会環境への介入を通じて、健康格差の是正を図ることを説いている。その上で、付加価値の合計であるGDPの最大化よりも、健康という基礎的な幸福(well-being)の指標の社会的最大化を図ることを政策目標にすることを提案している。

   評者が興味深く思ったのは、健康というwell-beingを増進するための対策を本書が提唱するに際し、格差の伝統的な議論で登場する再分配政策にとどまらず、(医師としての専門性を活かし)健康関連施策まで目配りし、これら施策を健康というゴールに紐づけて包括的に提示しようと試みる「姿勢」である。

   近藤氏は「積極的な社会政策」や「医療費の窓口負担の軽減」を取り上げており、これらについては、財源の問題や政策の効率性(政策がどの程度本当に困っている者に役立つか)から、評者なりに疑問なしとしない。他方、肥満対策において職場ストレスの軽減まで視野にいれることや、加工食品への塩分添加の抑制を通じた減塩対策など、社会環境への介入を通じて、個々の意識的努力を超えた環境を作り変えるという「姿勢」は理に適ったものである。環境と健康の因果関係が確立したものではなくても、一定の「たしからしさ」を備える場合、とられる政策手段が過度に大きなコストを伴うのでなければ、そのコストとの比較考量の上、環境への介入を通じ、人々の行動の善導を試みることはあってよい。近藤氏の提唱する「社会疫学」の考えは、はやりの行動経済学にも通ずるところがある。

ベンサムが考えたパノプティコンとは

ベンサムによるパノプティコンの構想図。円周部のセルに収容者が入り、中心点に監視者を配置
ベンサムによるパノプティコンの構想図。円周部のセルに収容者が入り、中心点に監視者を配置

   ここで時代を大きくさかのぼることをお許しいただきたい。格差を伴う貧困なるものは、それこそ文明の黎明期からの問題であるが、近代の社会保障につながる動きが早くから現れたのが英国である。『Panopticon』(1787年)は、その英国で、産業革命を通じた貧困問題の激化のなか、エリザベス救貧法(1601年)以来の救貧制度の改正論議において、功利主義の始祖として知られるベンサムから示された制度改正案の一部である。

   児玉聡氏(京都大学)の『功利主義の福祉制度論』(2005年)によると、ベンサムは、全国慈善会社を設置し、そのもとに勤労院を全国に設置することを提案した。全国慈善会社は共同出資者による出資金と国庫補助金により経営され、収容者の労働により採算を取ることが想定されていた。収容者に労働を求めることで、人々が怠情に陥ることを防止するとともに、退院後の就労支援策をも目論んだものである。これら勤労院の効率的・人道的な運営を担保するために、ベンサムが考案したのがパノプティコン(panopticon:全展望型監視システム)である。このシステムにおいては、収容者の一挙手一投足まで監視者の一望の下におかれ、その監視者も外部への情報公開を通じて社会的監視に服する。このシステムは、当時存在した労役場における非人道的処遇を改めるという問題意識に基づいて提案されていた。

   貧困のどん底にある者に対し、労働の場と規則正しい生活を提供し、院外での自立的生活への足がかりを与える。収容者への監視は、彼らが怠惰な生活へ逆戻りするのを防止するとともに、彼らへの虐待を阻止する。院の運営もまた社会による監視に服することで、院ぐるみの不正を抑止する。

   パノプティコンは当時としてはよく考えられたシステムといえなくもないのだが、強い非難にも晒されてきた。反自由主義的な権力の道具であるとの批判であり、例えば、ミシェル・フーコー(『監獄の誕生』)は、パノプティコンを肉体の訓練と監視を通じて、権力に従順な精神を作り上げるよこしまなシステムとして攻撃している。

   たしかにパノプティコンには、自由で主体的に決定するという近代以降の人間観と相いれないところがある。望むらくは、失業者は自ら生活を律しつつ、求職活動にあたり、自ら必要な訓練を選択するのであるし、さらに言えば、アルチュール・ランボーのように放浪生活の果てに短い人生を終える自由だってあって然るべきであろう。パノプティコンが収容者に与える規律がパターナリスティック(家父長主義的)であるのは間違いない。

   それでも、国や社会を治めるという視点に立つからには、誰もが自律して求職できるわけではないことは考えねばならないし、詩才を欠くランボーのような人物がふわふわとうろついている社会にはどこか問題があるような気になるものである。人間が「自由な主体」と言い切れるほど立派なものではないとすれば、パターナリズムとの批判は頭に置きつつも、なんらからのパノプティコン的なシステムの導入は検討に値する。フーコーは、精神病院、学校、性的行動の分野で、監視し規律する権力を批判し続けたけれども、これらの微妙な領域では、権力を非難するだけでは事は済まない。

    

社会疫学とパノプティコン

   近藤氏の提唱する社会疫学とパノプティコンを並べてなにがみえてくるのだろうか。二者は異なるものであるいう論者は、社会疫学が提案している施策が間接的なものにとどまっていることを挙げるだろう。再配分を通じた貧困層の所得改善は、貧しい者に自由に使える貨幣を与えるだけであるし、職場環境の改善や加工食品会社への規制を通じた減塩も、貧しい者の生活に直接介入するわけではない。

   しかしながら、両者の間には、社会環境への介入を通じて、人間の行動を変えようという根本の発想において共通項がある。自由で主体的な人間の選択に期待するのではなく、あたかも人間を与件に応じて変化する関数の束のように眺め、薬剤を投与するかのごとく環境を変えてみるのである。評者には、政策手段が直接的であるか、間接的であるかは相対的違いに過ぎないようにみえる。むしろ、社会疫学として、実効性の期待できる介入を志向すれば志向するほど、介入は個人に直接働きかける的を絞ったものになっていかざるをえない。単純で普遍的な所得保障が、財源の問題や政策の効率性から難点を抱えることは既に指摘した。職場環境の改善や減塩政策といった、もう少し的を絞った政策に対しては、評者も期待を寄せているけれども、それでもおそらく不十分であり、すると、より一層個人をターゲットにした施策が要請されるだろう。生活保護における伝統的なケースワーカーの役割はいうまでもない。第二のセイフティーネットともいわれる生活困窮者自立支援制度や、職業訓練、ジョブカードなどの雇用分野の施策など、思い起こせば、近年の政策が個別的介入の度合いを高めていることに気付くだろう。マイナンバーの活用はそうした動きを強めていくだろうし、個人のゲノム情報の活用も然りである。現代の政策は次第にパノプティコンに引き寄せられている。

   もちろん、個人情報保護やプライバシーなどの別の現代的要請には細心の注意を払う必要がある。他方、表面的なパノプティコン批判の段階で立ち止まっていることでは、社会に対し十分な責任が果たせないのも事実ではないか。

経済官庁(課長級) Repugnant Conclusion

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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