2024年 4月 26日 (金)

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次々出てくる百田尚樹「殉愛」と食い違い証言...「長女に会いに上海まで行った」

   やしきたかじんの遺産を巡るごたごたはいささか食傷気味だが、もう少しお付き合いいただきたい。先週の『女性自身』もやっていたが、たかじんが1993年に結婚して02年に離婚した2度目の奥さんについて、百田の「殉愛」ではたかじんに「ヨリを戻したいと言うてきた」が、彼が復縁なんかありえへんとはっきりいったという箇所がある。

   だが、百田はこの前妻を1度も取材しておらず、親族の一人は「事実と異なる」とこう訴えている。<「話は逆で、たかじんさんのほうから前妻に『やり直してほしい』と何度も言ってきていた。食道がんとわかってからより熱心になりましたが、その頃、前妻はすでに再婚。それでも『僕が死ぬまでだけでも一緒にいてくれ。今の夫と籍抜いてくれ。財産はお前に全部やりたい』と、私もたかじんさんに『あいつしか看取ってくれる人はおらん。なんとかしてくれ』と説得を頼まれた。13年8月頃までそういう連絡があったが、前妻には新しい家庭もあり、断ったんです」>

   13年8月といえばたかじんはがんの再発後で、その10月にさくら氏と結婚して3か月後に亡くなっている。維新の党の衆議院議員でたかじんのホームドクターのような存在だったという伊東信久氏は、さくら側がたかじんと実の娘は不仲だったといっていることに対して、たかじんは娘のことをとても気にかけ心配していたと話している。

   たかじんの弟子、打越元久氏もこう証言している。<「長女は00年頃から数年間、中国・上海で暮らしていたのですが、たかじん氏が心配して上海の家まで様子を見に行ったことがありました。『娘を連れ戻そうと思っていたが、中国語がめちゃめちゃうまくなっていたので感心し、頑張れよ、と言い、帰ってきた』と話していました」>

   次々に「殉愛」に書かれたこととは食い違う証言が出てくる。さくら側のいい分だけで書かれた「かつてない純愛ノンフィクション」は、いま厳しい批判に晒されている。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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