2024年 5月 5日 (日)

家族のための捨て石になろう!第2次大戦・欧州最前線に送られたNisei米兵・・・ようやく語れるようになった過酷体験

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   ドイツ・ミュンヘン郊外で今月3日(2015年5月)、ユダヤ人強制収容所の解放70周年を祝う式典が行われた。ユダヤ人4万人が虐殺されたナチスのダッハウ強制収容所の解放に貢献したのは、母国であるはずのアメリカで強制収容所に入れられ、理不尽な扱いを受けていた「Nisei」日系二世の兵士たちだった。

   日本では日系二世の兵士たちの過酷な戦争についてはほとんど知られていない。過去を蒸し返すことはないと彼らが語りたがらなかったからだが、戦後70年が過ぎて、元兵士たちのほとんどは90歳を超え、ようやく重い口を開き始めた。

270人の白人米兵救出のため800人以上が死傷した二世連隊

   74年前の日本軍による真珠湾攻撃でアメリカ西海岸で暮らしていた日系アメリカ人たちの生活は一変した。日本のスパイになることを恐れたアメリカ政府は敵性外国人として扱い、14万人を強制収容所に送った。仕事も財産も失い、有刺鉄線に囲まれた不毛の地で自由も尊厳も奪われた生活が始まった。当時18歳だった日系二世のマサオ・カドタ(91)は次のように述懐する。

「監視塔からはいつも見張られていた。鉄条網でできたフェンスに近寄ることもできず、何もすることができなかった。まるで囚人のようだったのです」

   戦争が始まって1年半後、戦闘が激化してくると、アメリカ政府は若い日系二世たちに兵役への参加を求めてきた。収容所に入れられた自分たちがなぜ戦わなければならないのか。矛盾を感じながらも従うことにした。理由は「敵性外国人ではなくアメリカ国民だと認められたかったのです」という。

   配属されたのは日系二世を集めてつくられた米陸軍442歩兵連隊だった。従軍した将兵の数は1万4000人、うち4000人以上が死傷した。死傷率は他の部隊の3倍だった。連隊は1943年にイタリアに上陸し、ドイツ軍を撃破しながら北上を続ける。その後、フランスに転戦して戦争末期にドイツ本国に進攻した。

   連隊は常に最前線での戦いを強いられ、突破口を開く役割を担わされた。なかでも激しかったと言われているのが、1944年10月に下された「ドイツ軍に包囲されている味方の白人兵270人を救出せよ」という命令だった。1200人の仲間とともに参加した日系二世のシグ・ドイ(95)によると、戦場はうっそうとした森で、敵の姿が見えないなかで四方八方から銃弾が撃ち込まれ、それを目当てに突撃を始めた。

「あの時のことは話しても理解してもらえないでしょう。人が吹き飛ばされ内臓が木に引っかかっていたのを見ました。足を撃たれ負傷すれば幸せな方です。前線から離れられるのですから。一番辛かったのは、(負傷もせずに)毎日を生きることでした」

   戦闘開始から4日後、包囲されていた白人兵の多くは無事に救出された。代わりに日系二世の兵士は800人以上が死傷する大きな犠牲を被った。

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