2024年 4月 26日 (金)

社民へ離党届け出した辻元清美氏 「大臣病か」「現実政治家への転身か」

   社民党の辻元清美衆院議員(大阪10区)が離党届けを出した。社民の政権離脱に伴い国土交通副大臣を辞任する際にはTVカメラの前で涙を見せた辻元氏は、今回の会見ではさばさばと「政策実現」の重要性を強調した。

   「これからは無所属として新たな挑戦をしたい」。2010年7月27日午後、辻元氏は大阪市内で離党届け提出会見を開いた。黒っぽい上下を着て、落ち着いた調子で経緯や思いを語った。

前原大臣から早くもラブコール

辻元清美議員の「次の一手」は?
辻元清美議員の「次の一手」は?

   辻元氏は7月26日夜、社民党の重野安正幹事長に離党の意向を伝えた。重野氏は慰留し、翌27日午前に会談した福島瑞穂党首も「一緒に頑張ろう」と訴えたが、辻元氏の決意は変わらなかった。知名度の高さなどから「将来の党首候補」ともいわれた看板議員の流出だ。

   辻元氏離党の方針が報道されると、7月27日には早速、前原誠司国交相が「もし無所属になれば、同じ会派で仕事をしたい」と会見でラブコールを送った。辻元氏が副大臣を辞任するまで同省で一緒に仕事をした仲だ。

   こうした流れを見越してか、27日朝からネット掲示板2ちゃんねるや個人ブログなどで、辻元氏に対し「これが大臣病というやつか」「権力の味が忘れられなくなったか」との指摘が相次いだ。中には、先の参院選で落選し、任期切れの26日からは民間人閣僚となった千葉景子法相の後任になるのでは、と気の早い予測を披露する声もあった。

   5月末の副大臣辞任会見では「第一線で取り組めなくなった」「残念」などと未練を残していた辻元氏。7月27日の離党会見でも「野党で批判の急先鋒に立ってきたが、それだけで日本を変えることはできない」と明確に「与党志向」を語った。「無所属」「今後の会派は白紙」などとも話した辻元氏だが、話の力点は、副大臣の仕事をする中で、「政策を実現」「現実を具体的に変えていく」重要性に目覚めたという話で、遠からず民主党と統一会派を組むのかな、と思わせる話しっぷりだった。

   小泉純一郎総理(当時)への「ソーリ、ソーリ」の連発で知られる辻元氏は、5月末の自身の副大臣辞任直後、情報番組「情報ライブ ミヤネ屋」(日本テレビ系)に生出演し、「元のソーリ、ソーリへ戻ります」と宣言していた。しかし、元副大臣の「魅力」を知ってしまった辻元氏は、「批判」する側では飽き足らなくなってしまったようだ。

04年の参院選では無所属で次点の過去

   地元大阪の支持者らの間にも困惑が広がっているようだ。辻元氏は09年夏の衆院選の際、社民党公認で民主党などの推薦を受けて小選挙区で当選した。大阪のある社民関係者は「説明が必要だ」と納得いかない様子だ。早くも民主入りの動きを想定する民主関係者もおり、「では民主へ移るからよろしく、と言われてもそう簡単に話は進まない」と厳しい表情だ。04年の参院選大阪選挙区では、辻元氏は無所属で民主公認候補らと戦い次点で敗れた過去もある。

   「無所属」を強調する辻元氏は、次の選挙でも09年衆院選の枠組みから「社民公認」の看板だけ下ろし、社民・民主支持者の支援を引き続き受けながら無党派層も取り込んだ戦いを想定しているのかもしれないし、ほとぼりが冷めたころに民主入りするのかもしれない。10年7月の参院選では、社民党は議席を改選前の3から2へ減らした。今回の「離党」は、こうした社民退潮に辻元氏が危機感を募らせた結果だ、との見方も出ている。

   民間国際交流団体「ピースボート」の設立者の一人として知られる辻元氏は、1996年に社民党候補として比例で初当選した。2002年に発覚した秘書給与流用事件で議員辞職し、後に逮捕・起訴され執行猶予つき有罪判決を受けた。05年の衆院選で「復活」を果たし、09年に4選を果たした。

   辻元氏の今回の動きが、大臣病だと否定的にみられるのか、「理想論に終わらない政治家へ成長した」と評価を高めることになるのかは、今後の動向にかかっているようだ。

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