2024年 3月 29日 (金)

震災と日本人 倫理学者 竹内整一
連載(12) 「神様消滅」という藤原新也氏の写真で考える

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   「私は水責め火責めの地獄の中で完膚なきまでに残酷な方法で殺され、破壊し尽くされた三陸の延々たる屍土の上に立ち、人間の歴史の中で築かれた神の存在をいま疑う。」「そして"神幻想"を失った私たちはいま孤独だ。しかしまた孤独ほど強いものもない。哀しみや苦しみや痛みを乗り越え、神幻想から自立し、自らの二本足で立とうとする者ほど強いものはない。」「日本と日本人はいま、そのような旅立ちをせんとしている。」(「東日本大震災 100人の証言」AERA緊急増刊2011年4月10日)

   写真家の藤原新也氏の「全土消滅 昭和消滅 神様消滅 独立独歩」と題する文章である。被災後1週間の、神なき「無法地」と化した現地と、そこに残されたごくささやかな幸せを求めていたであろう人々の痕跡との無惨な対照を写し出す写真とともに述べられたこの文章には、しばし沈黙せざるをえないほどの迫力があった。

   あれから1か月、この写真と文章は、ずっとざわつくように気になっていた。

   おそらく、こうした大災害に遭うたびに、人は人を超えた存在や働きを問い続けてきただろうと思う。かつて寺田寅彦は、「地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住む」われわれ日本人にとっては、「天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っている」と言い、天然・自然の「不可抗の威力」を「厳父の斧」と譬えていた。今度のことをいち早く「天罰」と受けとめ、われわれの「我欲」に走る生き方を反省すべきだと言った石原慎太郎氏の発言も、根本は同じような発想からのものであったのだろう(もっともこれは、発言自体が犠牲者に対して不謹慎だと批判され、撤回されたが)。

しなやかに生きる精神伝統を、今あらためて思い起こす

   古来、日本人は、地震や台風など災厄は、みな祟り神の所為であると考え、それを怖れ祭り、願い祈ることによって、荒々しい働きをやわらげ、われわれを恵み幸(さきわ)う働きへ転じるようにと祭祀、祭り事を営んできた。

   藤原氏も、「私たちが"生かされ続けてきた"長い恵みの歴史の中で"そこに神がいる"という想念は当たり前のこととして人間生活の中に定着した。」と言う。

   にもかかわらず、「このたび、神は人を殺した。」と、最初の文章につなげ、もはや「神幻想から自立」すべきだと訴えているのである。また、石原発言について、「それはイワシの頭を信じる愚か者が叫んだように"罰が当たった"のではなく、神はただのハリボテであり、もともとそこに神という存在そのものがなかっただけの話なのだ。」と切り捨てようとしている。

   あらためて考えてみているが、そうは思えない。

   また、よく言われるように、近現代の日本人が無宗教であるとも思わない。

   Religionの翻訳語に「宗教」が当てられて以来、信仰のあり方が限定的に語られるようになったのは事実である。毎年八千万を超える人々が初詣に参るし、お盆にはふるさとに帰省し墓前に手を合わせている。さまざまな祭りや年中行事も、変わることなく続けられてきている。そうした営みにはさまざまな要素を含みながら、しかしその根底には、日本人の宗教心ともいうべきものが確かに見てとれる。それは寺田のいう「遠い遠い祖先からの遺伝的記憶」からそう離れているものではない。「不可抗の威力」があると感受することそのものが、すでに大事な「信仰」ではないだろうか。そうした「威力」のあることを確かに受けとめることにおいてこそ、勁(つよ)く、そしてしなやかに生きうるとする精神伝統を、今あらためて思い起こしたい。

   そもそも、「神幻想から自立し、自らの二本の足で立とうとする」藤原氏のこの文章には、「怒り」や「切なさ」が、"神"に向け発せられているように見えること自体に、単なる「否定」ではないものが感じられる。


++ 竹内整一プロフィール
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。
1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。


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