2024年 4月 20日 (土)

野中広務さん死去、92歳 「影の総理」と言われた自民元重鎮

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   内閣官房長官や自由民主党幹事長など政府や与党の要職を歴任し、政界の実力者として知られた野中広務(のなか・ひろむ)さんが2018年1月26日、死去した。92歳だった。NHKやTBSなどが同日、報じた。

   中央政界に進出したのは50代後半になってからだったが、短期間に力をつけて永田町を牛耳り、一時は「影の総理」とも言われた。戦争体験者として「戦争責任」を問い続け、2003年に政界を引退したあとも折に触れマスコミに登場、「憲法9条だけは守ってほしい」と話していた。

  • 野中広務さん(右)が亡くなった(画像は角川新書の「差別と日本人」)
    野中広務さん(右)が亡くなった(画像は角川新書の「差別と日本人」)
  • 野中広務さん(右)が亡くなった(画像は角川新書の「差別と日本人」)

官房長官や自民党の幹事長を歴任

   1925年生まれ。京都府出身。旧制園部中学卒業後、大阪鉄道局に勤めたが、召集され、高知の陸軍の部隊へ。約半年で終戦。復員して再び大阪鉄道局に。25歳の時、地元に戻り、青年団活動などに参加。町議、町長、府議会議員のあと、副知事も務めた。

   83年、旧京都2区の衆議院補選で当選、57歳で代議士になった。田中角栄氏、竹下登氏とは若いころから面識があり、旧田中派、経世会に属した。

   93年、非自民・非共産連立による細川護熙政権が誕生。自民党は野党に転落したが、亀井静香代議士らと共に、細川内閣を倒して94年、自社さ連立の村山富市内閣を実現させるために尽力、短期間で自民党を政権与党に復帰させる。自治大臣・国家公安委員長として初入閣し、「首相の後ろ盾」として存在感を高めた。95年、自民党副幹事長、98年、小渕恵三内閣で官房長官、2000年の森喜朗内閣では党幹事長として辣腕をふるった。

   旧経世会の小沢一郎氏とは同じ派閥にもかかわらず険悪な間柄だったが、官房長官の時代に、小沢氏が率いる自由党と自民党との自自連立に関わった。さらに公明党を引き込む自自公連立への道筋をつけ、のちの自公政権につながる安定政権づくりに奔走した。

   しかし、01年の小泉純一郎内閣では主流から外れ、郵政民営化などでも対立、「守旧派」として批判される側になり、03年、議員を引退した。

京都の経験、国政で生かす

   剛腕、コワモテの政治家として知られた。1991年、「NHKのドン」言われたシマゲジこと島桂次・NHK会長の首切り騒動で頭角を現す。島氏は大物会長として君臨していたが、態度が横柄ということで霞が関・永田町界隈では反発する向きも多かった。野中さんは、島会長の国会答弁にウソがあることを聞きつけて揺さぶり、辞任に追い込んだ。

「野中は『シマゲジの首をとった男』として一躍脚光を浴び、郵政省やNHKに影響力を持つ族議員としての地位を確立した」(魚住昭著『野中広務 差別と権力』、講談社)。

   保守系議員に多い典型的な叩き上げ。その中でも、「京都出身」ということで他の地方出身の自民党議員とは一味違う逞しさがあった。

   野中さんが町長や府議のころ、京都では、革新系の蜷川虎三知事が絶対的な権力を誇っていた。1950年から78年まで実に7期連続当選。野中さんは、ときに蜷川府政と手を組み、ときに対峙しながら政治家としての力と技を蓄えた。そして78年、府政を奪還したあとは副知事になり、行政手腕を磨いた。

   90年代に自民が野党に転落した時、「皮肉にも私のその(京都での)経験が国政の場で生きることになった」(自著『老兵は死なず』文藝春秋、2003年)と振り返っている。

   しかも与党に復帰するために「社会党首相を担ぐ」という離れ技を使う――その老獪さと凄腕ぶりで大物政治家としての評価が高まった。

「再び大政翼賛会のようにならないように」

「政治家としての野中さんは多面性を持っていた。激しい闘争を勝ち抜き、『影の総理』とまで言われた権力者の顔。苦しみや痛みを抱えた者への配慮を忘れぬ優しき顔。そして軍隊体験に根ざしたハト派としての顔...」(朝日新聞、2016年4月10日)

   権謀術数に長けた老獪な政治家で、自民党の重鎮だったにもかかわらず、時折、何かに突き動かせられたかのようなイレギュラーな動きを見せることがあった。

   1997年、沖縄米軍用地特別措置法改正法案が圧倒的多数の賛成で通ったときは、衆院特別委員会委員長の立場だったにも関わらず、「今回の審議がどうぞ再び大政翼賛会のようにならないように」と発言、物議をかもし、議事録から削除された。

   2001年の9.11テロ事件を受けて、小泉内閣で自衛隊の海外派遣を認めるテロ対策特別措置法案が採決されたときは、直前に議場を出た。国家の運命を決めかねない重要法案だから、記名採決にすべきだと主張したが、容れられず、棄権することで、起立採決になったことに抗議の意思を示した。

   引退後はさらに、大胆な言動が目立つようになる。09年には共産党の機関紙「赤旗」のインタビューに応じて平和について語り、話題になった。17年4月の朝日新聞のインタビューでは、「一番まずかったのは集団的自衛権の行使を認める安保法制をつくり、戦争をできる国にしたこと」「『憲法9条だけは守ってほしい』と言い続けるのは戦争体験があるから」と語っていた。

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