2024年 4月 24日 (水)

俳人の金子兜太さん死去、98歳 「アベ政治を許さない」揮毫も

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   俳句界に新風を吹き込み、90歳を過ぎても現役で活躍し続けた現代俳句協会名誉会長の金子兜太(かねこ・とうた)さんが2018年2月20日、誤嚥性肺炎による急性呼吸促迫症候群のため死去した。98歳だった。各メディアが伝えた。

   俳句は季語や旧仮名づかいなど制約が多い芸術だが、金子さんは創作の自由度を広げることを主張し、理論と実作の両面で俳句の革新を訴え続けた。小林一茶や種田山頭火の再評価でも知られた。15年に安保関連法案の反対運動が盛り上がった時には、プラカードの「アベ政治を許さない」というメッセージ文字を揮毫して話題になった。

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日銀の「窓奥族」

   1919年、埼玉県西部の小川町に生まれる。兜太は本名。父親は開業医で俳人でもあった。地元の伝統芸能の保存運動にも熱を入れ、自宅の庭は秩父音頭の練習の場になっていた。金子さんは幼少時から、俳句に類似した七五調の民謡に親しみ、「秩父が私の俳句の産土」と語っていた。

   実際に俳句を作り始めたのは旧制水戸高校時代から。加藤楸邨らに師事する。東大経済学部を卒業して日本銀行に入り、海軍経理学校を経て1944(昭和19)年、海軍主計中尉としてニューギニア近くのトラック諸島に赴任する。まもなくサイパンが陥落して補給路が断たれ孤立、食糧不足で餓死者が続出した。「嫌というほど無残な死を見てきました」――戦場の悲惨さを生身で体験したことが戦後人生の出発点となった。

   戦争捕虜となり、米軍施設の建設に従事した後、46年末に帰国。日銀に復帰したが、銀行内の身分格差に憤りを感じ、労組の専従事務局長に。「当時の勤め人にとって、反戦平和と言えば組合活動だった」(『語る兜太』(岩波書店)。上司ににらまれ、出世コースから完全に外されて福島、神戸、長崎と地方支店を転々とした。その間に、「アンチ東京俳壇」で鼻息が荒かった関西の前衛俳人らとの交流を深め、触発される。56年、現代俳句協会賞。57年、『俳句』誌に「俳句の造型について」を発表、次第に日銀マンの仕事から俳人としての活動に軸足を移した。

   60年に東京に戻り、日銀には74年の定年まで勤める。晩年は金庫番。窓際族ならぬ「窓奥族」と自称した。

   退職後は78年から東京・新宿の朝日カルチャーセンターで30年にわたって俳句講座を受け持ち、ざっくばらんな語り口で人気講師に。後半の10年ほどは東京・青山のNHK文化センターでも教えた。テレビの「NHK俳壇」「BS俳句王国」にも出演し、「伊藤園お~いお茶新俳句大賞」の最終審査委員も長年続けるなど、俳句の裾野拡大、大衆化に貢献した。08年に文化功労者、10年に菊池寛賞、 16年に朝日賞。

「安倍」と書くのは嫌だ

「日本人は俳句に対してもっと自由にならないかなぁと思います。『てにをは』がどうだとか、季語が入るとか、これは川柳なのかとか、どうでもいいじゃないですか」(NTTコムウェア『COMZINE』2011年9月号インタビューより)

   俳句づくりで細かいことを気にするな、大事なのは作者の感覚だ――金子さんは戦後の「現代俳人」「前衛俳人」の代表格と見なされ、花鳥風月を季語で表現することを旨とする伝統的な俳壇に真っ向から挑んだ。

   師事した加藤楸邨は、「人間探求派」と呼ばれ、生活や自己の内面に深く根ざした作風だった。加えて金子さんの戦争体験が、戦後の現実を、体当たりの力技で俳句とすることにこだわらせた。

   86年に「異端」の金子さんが朝日俳壇の選者に選ばれると、俳壇にセンセーションを巻き起こす。選んだ句に対し、「おかしい」というハガキがいっぺんに数十通も届いた。一時は伝統系の有力俳人たちが社主に「辞めさせろ」と直訴する事態にもなった。

   朝日俳壇は新聞俳壇の頂点にあるといわれる。高浜虚子、中村草田男、石田波郷、山口誓子らそうそうたる俳人が選者を務めてきた。毎週数千句の投稿があり、現在の選者は4氏。伝統から前衛まで、それぞれ俳句観が異なるので、複数の選者が同一句を選ぶことはまずない。金子さんは30年にわたって選者を続け、週1回の選句会に出席、「終生選者」を目指すと宣言していた。

   2015年は「書家」としてもスポットが当たった。「アベ政治を許さない」の文字を書いたからだ。依頼したのはこの年、自身の戦争体験『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』を出版した作家の澤地久枝さん。「非業の死者に報いる」ことを戦後人生の原点としていた金子さんは「こっちからお願いしてでもやらなくちゃ」と引き受けた。「安倍」は、「安心」や「安寧」が倍になるから、という理由で「アベ」にしたという。(『あの夏、兵士だった私――96歳、戦争体験者からの警鐘』清流出版)

   金子さんは「反」の人だと日経新聞(14年8月1日)は評した。反戦、反出世、俳句も反権威・・・。何かのイデオロギーで「反」というわけではない。「人間丸出し」の人生を貫いているうちに、「反」になっていた。

   「後世に、金子兜太はどんな俳人だった言われたらうれしいですか」――共著『私の骨格「自由人」』NHK出版)の中で聞かれると、金子さんは「自由の俳人だったといわれればうれしい」「俳句そのものだったといわれてもうれしい」「俳句しかとりえがなかったといわれてもうれしい」と答えていた。

   句集や俳句論など著書多数。小林一茶に魅せられて晩年、『荒凡夫(あらぼんぷ)一茶』(白水社)を出した。「荒」は「自然」と重なり、何ものにもとらわれずに生きる姿だという。金子さん自身も一茶のように「荒凡夫」、それも気骨ある「荒凡夫」として生きた。

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