2018年 11月 15日 (木)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(9)
大久保利通が描いた「国家像」

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   幕末から維新にかけて、日本が選択する道の一つにアメリカのような連邦制国家がありえた。これは現実の明治維新をさらに発展させるか、あるいは新政府が中央集権国家ではなく、各地方の県(廃藩置県時)を20から30に絞り、それぞれの地方政権に一定の権力を与えて中央政府の役割を限定的に限る案である。いうまでもなく徳川時代の武家政権のような形に似ていると言ってもいいかも知れない。そのような可能性はあったのか、となれば、あったともいえるし、ありえないといえばそうなのかも知れない。

   明治維新の7年ほど前になるのだが、アメリカでは南北戦争が起こった。経済的自立を目指しての、あるいは黒人差別の撤廃をめぐる戦争ともいえた。この戦争でアメリカでは60万人の死傷者が出たというのである。さらに1871年にパリではコミューンの内乱が起こり、万を越す死傷が出たというのである。このような時代にあっての明治維新は、極めておとなしい変革でもあった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 明治維新では大久保利通が例外的に国家ビジョンを持つ政治家だった
    明治維新では大久保利通が例外的に国家ビジョンを持つ政治家だった

明治維新は欧米と比べれば「極めておとなしい変革」

   伊藤博文はこのことが自慢で、外国に出かけた折、さらには外国要人にこの犠牲者の少ない体制変革についてしばしば説明を繰り返したというのだ。この事実により日本社会が対立抗争を続けてこなかった特異性を説明できる。換言すれば、幕府の統制能力が優れていたためともいえるし、日本人の間に体制変革を求める声自体がそれほど大きかったわけではないとの言い方もできた。実際に日本では社会変革につながる極度の対立要因はなかった。宗教対立や思想上の混乱もなかった。血で血を争う因はなかったと言っても良かった。

   このような社会の同質性が幸いしたとの見方は当たっているように思う。

   つまり日本社会は江戸時代の270年間にある種の思想や理念を身につけたと言ってもいいのではないか。具体的にいえば、権力それ自体に庶民が関わることは避けるといった知恵があったということかも知れない。ごく平凡な日常を過ごし、自らの属する共同体に身を置いていれば一生を完結できるとの約束は、社会変革にまでエネルギーが高まらないということでもあろう。幕末から維新にかけて、庶民は京都や江戸での体制変革にどれほどの関心を持ったかは明らかでない。時代を受け身で捉えていたように思えるのだ。

   こういう国民性なためか、明治維新そのものも独裁者が登場して進めたわけではない。むしろいかに状況をまとめるかが要求された。その意味ではまとめ役が日本社会のリーダーになるケースが多かった。あえて例外的といえば、大久保利通が調整役より国家ビジョンを持つ政治家といえた。この大久保の政治的経綸は維新時に大政奉還からのめまぐるしい政局の変化の中で、しばしば生かされることになり、新政府の指導者の立場で改革の手順を担うのは、まさに大久保のみとなる状態だった。

西郷隆盛ら征韓論者を退ける

   さてこうした状態を踏まえた上で、明治初年代の政策立案の過程で、新政府の権力の大半を握った大久保は、いわゆる岩倉使節団の名目のもと、明治4(1871)年から6(1873)年にかけてアメリカやヨーロッパの国々の視察に赴いた。2年近くの時間をかけての視察であった。この使節団の評価、あるいは歴史的な意味については、このシリーズでも本格的に取り組みたいと思うのだが、新政府の形はこの使節団の身につけた知識、理論、そして思想に負うところが大きかったのである。大久保はこの体験を通して、安易な排外主義を排する一方で、まずは徹底した内政主導での国づくりを考えた。

   使節団の留守の間を担ったのは西郷隆盛や板垣退助、副島種臣らであったが、彼らは征韓論を主張していた。これに対して大久保はこれを認めず 、結局、征韓論の論者たちは野に下った。確かに全国の不平士族の欲求不満を解消するがごときのこの論は政治的にあまりにも乱暴だった。この後の不平士族の反乱、自由民権運動の盛り上がりはこれまで見てきたとおりである。

   しかし、その後の明治政府の政策は大久保の政策が、そして大久保が暗殺された後の新政府は山県有朋や伊藤博文らに主導権は移るにせよ、そこには大久保の描いていた国家像があった。それが帝国主義的な国家の姿であった。山県も伊藤も着実にその像の完成を目指した。その可視化された史実の裏側で不可視の国家像を実際に権力を握った指導者たちは考えていたかを探って見るべきであろう。私は、大久保が図らずも暗殺される当日の朝にある人物に語った内容に注目すべきだと思う。そこに大久保の描いていたもう一つの国家の姿があったのではないか。(第10回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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