2024年 5月 11日 (土)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(11)
昭和天皇が「開戦」受け入れた理由

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皇統を守るために戦争という手段を受けいれる

   改めてこの間の御前会議、大本営政府連絡会議などの記録文書を丹念に読むと、つまりは軍事指導者たちが、「戦争を選んでください」「石油がない。日本はもうやっていけません」「国は成り立ちませんよ」という類の脅迫まがいの言辞をなして、天皇に詰め寄った風景が容易に想像できる。天皇は、何度も「戦争しかないのか」「戦争を選択しても勝つ自信があるのか」といった切実な質問を発し、そのやり取りが続いたことがわかってくる。特に昭和16(1941)年4月から11月までの対米外交交渉の間の記録を読むと、この空気がよくわかる。

   結局、昭和天皇は軍事指導者たちの言を受け入れる。しかしそのことをもって、天皇を好戦主義者だというような言はあたらない。天皇は皇統を守るために戦争という手段を受けいれたからである。天皇は3年8か月の太平洋戦争の間、いつも同じ気持ちであったわけではない。悩み苦しみ、そしてときに混乱し、政務室で一人でなにごとかを呟いて歩き回った姿は侍従たちに何度も見られている。侍従の一人は、そのお姿はなぜ戦争を始めたのか、と苦悩されている姿そのものだったと証言している。

   本来、天皇にとって戦争は皇統を守るときの、最大の敵であった。20世紀に入ったとき、ヨーロッパで君主制でなかった国はフランスとスイスだけであった。それが第一次世界大戦後はオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国などの支配下のあった国はいずれも独立し、君主制を廃止していった。それは歴史的な教訓でもあった。

   むろんそういう史実は天皇周辺の人たちも知っていた。知らなかったのは軍人たちだけであった。彼らは自分たちだけが、天皇に忠節を誓い、天皇に戦争に勝つことでこの国の富を増やすといった古典的な帝国主義的軍事観にとらわれていた。そこから抜け出せない頑迷さが欠陥だったのである。昭和天皇はそれに振り回されることになった。(第12回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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