2024年 4月 20日 (土)

保阪正康の「不可視の視点」
  明治維新150年でふり返る近代日本(16)
  青年将校の独善に苦悶した昭和天皇

建築予定地やご希望の地域の工務店へ一括無料資料請求

酒を飲んで上奏に赴く幕僚たち

   昭和の初めのことだが、省部の幕僚たちの間にある通達が渡った。それは夜間に天皇に上奏に赴く時は、酒を飲んで御前に出るのはやめようとの内容である。将官たちは夜の食事の折に晩酌をするのだが、そのために赤ら顔で天皇の前に出て行くことになる。これは天皇に失礼だから酒を飲んで出て行くことはあってはならないというのである。この事実は軍事を動かしている軍事指導者がどういう気持ちで天皇と接触しているかをあらわすエピソードといっていい。彼らは天皇に新しい時代の君主になって欲しいと願いつつ、しかし自分たちの目の届く範囲内で動かして自分たちの望む方向に天皇を引っ張りこもうとの魂胆がうかがえてくるのだ。

   もう一つ語っておくことにしよう。昭和の初めは、陸軍の青年将校や海軍士官は国家改造に挺身していた。この時に彼らはしばしば大善、小善という言い方をした。どういう意味かというと、大善というのは天皇のお気持ちを察して一歩前に出て既成事実を作ることを指す。天皇のためになると考えたことは積極的に行う。小善というのは軍人勅諭にある通りに天皇に忠誠を誓うだけの姿勢を指す。軍人なら大善を尽くせというのが、国家改造に身を投じた青年将校の務めというのであった。

   このことは、つまり天皇のためになると思えば何を行なっても許されるというのであった。この独善は昭和天皇への侮辱に通じていることを青年将校たちはまったく考えなかった。昭和の初めのこうした動きは、大元帥という顔を持って、政治的な主権者という天皇を抑え込もうとするのであった。昭和に入って軍部が異様に力を持つのは、天皇を神格化しながら、その実自分たちの思う通りの天皇にする運動の結果とも言えた。昭和天皇は、その動きに抗することができず煩悶を続け、結局、2・26事件の折にやっと自らの怒りを表面化したのであった。

   天皇が自らの心情を抑えることで、臣下の者に利用される存在になったのは帝王学を身につけたが故のことだったのである。(第17回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

1 2
姉妹サイト

注目情報

PR
追悼
J-CASTニュースをフォローして
最新情報をチェック
電子書籍 フジ三太郎とサトウサンペイ 好評発売中