2019年 10月 14日 (月)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(29)
「皇軍転じて神軍に」が意味すること

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皇軍史から作り出された「不可視の領域」

   現実には国民の全てを兵士化しようとしているのだから、その教科書にという思惑があったのだろう。この書には「序説」があり、日本軍(皇軍)という所以が説かれている。皇軍転じて、今は神軍といった感を与えるようなニュアンスが全体を覆い尽くしているのである。この序説には次のような一節があり、この書を貫くテーマだといってもいいであろう。長くなるが引用しよう。

「我が肇国の初めより天祖の率ひ給ひし軍隊乃ち神軍と称すべきもの、さては天孫降臨に際して供奉せる軍隊等即ち我が皇祖皇孫を護り衛りし軍隊を叙して皇軍成立の本義を明かにし、人皇第1代神武天皇御東遷に随ひまつり中州平定の聖業を御翼けした皇軍を語り、以後歴代の天皇御親卒の下に皇道を宣揚し皇威を顕揚した皇軍の事績を叙して皇紀二千六百年の今日に及んだ」

   わかりやすく言うならば、今我々は神軍として、聖業完遂の使命を持って今次の戦争を戦っていると言うのであった。神武天皇からの神代、そして神軍が聖なる存在として存在するとの認識は、明治からの近代国家そのものの否定につながっている。まさに理知や理性、それに知性などはまったく存在しないといった理解であった。大山巌の訓示はここに行きついたのであった。ところがよく吟味していくと、ことはそう簡単ではないことがわかってくる。つまり不可視の領域がこの皇軍史の中からは作り出されているのである。その点に注目しておく必要があるのだ。

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