2024年 4月 19日 (金)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(37)
「臨時軍事費」浪費にみる「道徳的崩壊状態」

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   日本軍に兵站思想が極端なまでに不足している事実は、いくらでも指摘できる。同時に戦地にあって驚くほどの退嬰(たいえい=尻込みすること)現象があったのも事実である。私自身、その退嬰ぶりは当の軍人たちからも聞かされた。

   すでにこのシリーズでは、大蔵大臣であった賀屋興宣の回想録からも引用したが、戦争は軍人に多くの特権を与えることになり、それゆえに戦争を食い物にする者も少なくなかった。

  • 日本軍は兵站の軽視が際立っていた(写真はインパール作戦で日本軍を追うグルカ兵)
    日本軍は兵站の軽視が際立っていた(写真はインパール作戦で日本軍を追うグルカ兵)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 日本軍は兵站の軽視が際立っていた(写真はインパール作戦で日本軍を追うグルカ兵)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん

南方の戦闘に自分専用のアイスクリーム製造機を...

   それは臨時軍事費がどれほどいい加減に使われたかを見ることでも理解できる。戦争の原価計算以前に、とにかく好き勝手に軍事費を使い込んでいた。その事実を私は旧軍の軍人からいくつも聞かされた。太平洋戦争の開戦時に兵務局長だった田中隆吉は、戦時下で東條英機首相、陸相と対立して軍籍を離れたのだが、戦後すぐに陸軍の告発の書を何冊か刊行している。その中から事例を抜き出すと次のような呆れる話がいくつもある。

(1)戦地でのある高級指揮官は南方での戦闘で、自分専用のアイスクリームの製造機を兵士に持たせて戦闘を行った。飢えた部隊もいたのにである。
(2)ある師団長は、司令部の中に娼婦を匿いながら各地を転戦したというのは有名である。
(3)ある司令部では占領地の政治、経済を担う将校たちが、巨額の軍事費を遊興の費用にあてた。(兵士たちの証言によれば、着服した将校もいたと証言している)
(4)ある憲兵隊長は現地の女性に飲食店を経営させ、その利益を自分の懐に入れていた。
(5)特務機関長はやはり現地の女性に自ら持っている許認可の権限を悪用して、その女性の肉親に 炭鉱採掘の権利を与えた。

   田中は、憲兵の元締めだったのでこうした情報はそれこそ無数に集めることができたのであろう。戦争という名目で精算の不要な公費が私的に使われ放題だったのである。このことは何を意味するのか、改めて見つめる必要があるだろう。一方で兵站もなく戦場に放り出された状態の兵士たちの存在を思うとき、戦費とは何を指すのか、それはどのように捻出されたのかを見ていくと、聖戦という美名のもとにいかに道徳的な崩壊状態になっていたかが分かってくるのだ。あえて田中の著作(『敗因を衝く―軍閥専横の実相』)からの引用になるが、国民もまた飢えに苦しんでいる時にとんでもない光景が現出していたのである。

師団移転で残った「携行し得ざる二百石の清酒」

   日本社会で米の配給が始まったのは、1941(昭和16)年4月である。このころ成年男子が日常生活に必要なのは、1日に2400カロリーだとされていた。それだけは確保すると政府は約束した。それが1942(昭和17)年には1日に2000カロリー、1950(昭和25)年には1800カロリーまで低められた。国民の栄養状態はどん底状態になった。結核の死亡患者は18万人に及んだが、戦争末期には死亡患者数の発表をやめた。激増したからである。これだけのことを知って、田中隆吉の前述の書を見てみよう。

「国民が1日2合3勺の主食の配給に、日に日に衰えつつあるとき、軍隊は戦時給養と称して1日6合の米麦を貪り食った。肉も魚も野菜も国民の配給量の数倍であった。国民が雀の涙ほどの配給に舌を鳴らしつつあるとき、ある師団の移転の際には、携行し得ざる二百石の清酒が残った。大都市の民が、椀の底が見えるような雑炊を主食の代わりとして吸い込みつつあるとき、高級官衙に勤務する軍人及び軍属は、外食券を用いずして二十五銭の弁当にその腹を膨らませた」

自省の念漏らす軍人も

   こうした現実はたった一つの言葉で正当化された。戦時には戦力として必要とされる順序がある。その上位がそれだけの恩恵を受けるのは当たり前であり、戦争に役立たぬ者には恩恵など与える必要はないとの思想である。この思想のもと、軍人はまさに国家の基本的な秩序や枠組みを根本から破壊したのである。こういう事実を確認していくと、「皇軍」が兵站思想など持つわけがないことに容易に気がつくではないか。これはいずれ引き出される結論になるのだが、なぜ日本は国民軍を持ち得なかったのかが問われるのは、こうした事実があまりにも多かったからである。

   もっとも軍内にはこういう兵站思想なき戦いに自省の念を漏らす軍人たちもいなかったわけではない。1944(昭和19)年9月に陸軍省の将校(主流派ではないが)の中には、「軍隊がその生活レベルを国民のレベルにまで下げて、国民とともに苦しまない限り、この戦争は必敗である。国民はよくこの状態で今日まで耐えてきたことに驚いている」という声もあったという。これは田中の前述の書で明かされている。

   田中はこういう良識のある声は全く顧みられなかったと怒っている。兵站なき戦争の歪さについてはもう少し検証を続けよう。(第38回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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